白い欄
時間を測り、役に立つものだけを信じる宮原は、山間の集落で道を失い、予定にも記録にも収まらない時間へ閉じ込められる。曲がった木、泥、水、古典、そして三十七分の空白が、彼の合理性を静かに侵食していく。
見取り図
第一章
三分
午前十一時十三分、宮原聡一は三分を失った。
三分というのは比喩ではなかった。駅前の交差点で歩行者信号が青になるまで一分四十七秒。停車していた配送車が左折を終えるまで二十八秒。雑居ビルの入口で、前を歩いていた老人が自動ドアに二度反応してもらえず、立ち止まったことで四十五秒。合計すると、ほぼ三分だった。
宮原は、こういう時間を「待ち時間」とは呼ばなかった。待つという言葉には、どこか受動的で、責任の所在を曖昧にする響きがある。正確には、外部要因によって予定の実行が阻害された時間である。彼の手帳の余白には、小さな字で「移動ロス 三分」と記された。
時間というものは、曖昧な言葉で呼ぶと、すぐに姿を変える。
少し待った。思ったより時間がかかった。気づけば昼だった。
少しとは何分なのか。思ったよりとは、何を基準にしているのか。気づかなかった間、その人間は何をしていたのか。宮原には、そういう表現がひどく怠惰に思えた。
人が時間を失うのは、時間が足りないからではない。測っていないからだ。
腕時計を見る。十一時十六分。
予定していた電車には、まだ間に合う。
宮原は改札を抜け、ホームへ降りた。発車まで六分ある。未読メールが七件。確認依頼が二件。業務連絡が四件。会員登録を促す広告が一件。
広告は件名だけを見て削除した。残り六件には、電車が到着する前に返信した。一件当たり一分弱だった。
宮原は、自分が仕事の早い人間だと知っていた。それを誇っているつもりはない。ただ、遅い人間が嫌いだった。
正確に言えば、遅いことそのものではない。
なぜ遅れているのかを説明できない人間が嫌いだった。
事故。病気。制度上の制約。他者からの回答待ち。そうしたものは理解できる。原因を分解できれば、再発防止ができる。再発防止ができるなら、それは失敗ではなく改善前の状態にすぎない。
だが、「なんとなく時間がかかった」という答えだけは我慢ならなかった。
なんとなく。
それは、考えることを放棄した人間が、自分の怠慢に掛ける薄い布だった。
電車がホームへ入ってきた。
宮原は乗車位置を示す線より半歩後ろに立っていた。扉が開いた瞬間に乗り込めて、なおかつ降車する人間の流れを妨げない位置だった。
予定どおりだった。
その日の仕事は、山間部の小さな集落にある公共施設を調査することだった。
役所から送られてきた業務名は「遊休公共資産の有効活用可能性調査」となっていた。
旧集会所、旧診療所、旧分校、農産物加工施設、倉庫、資材置場。どれも長年、ほとんど使われていないらしい。使用実績がない。維持費だけがかかる。屋根や配管の修繕も必要になる。
しかし、廃止しようとすると住民から反対が出る。
思い出がある。昔は皆が集まった。地域の象徴である。災害時に使えるかもしれない。
宮原は「かもしれない」という言葉も好きではなかった。
可能性は数値にしなければ意味がない。
年間利用者数。使用頻度。維持管理費。将来修繕費。アクセス条件。収益性。人口推計。代替施設の有無。
それらを並べれば、残すべきものと廃止すべきものは自然に分かれる。
人は感情を複雑なものだと思っている。
だが、感情の多くは整理されていない情報にすぎない。
宮原は、そう考えていた。
その考え方を身につけたのが、いつだったのかは分からない。
少年の頃、父は小さな家具工場で働いていた。家へ帰ってくると、作業服の袖から木屑が落ちた。食卓の横には、父が工場から持ち帰った細い木片がいつも何本か立てかけてあった。
父は、まっすぐな木を好んだ。
反りの少ない板。節のない板。規格どおりの長さに切れる板。一本の丸太から、どれだけ無駄なく部材を取れるか。父は茶碗を持つ手で空中に線を引きながら、歩留まりという言葉を何度も使った。
歩留まりが悪い仕事は、利益が出ない。
利益が出ない工場は、人を残せない。
人を残せない会社は、家族を守れない。
父の話は、いつもその順序で終わった。
工場が閉鎖されたのは、宮原が十六歳の春だった。
父はしばらく家にいた。朝六時に起き、作業服へ着替え、食卓で新聞を読んだ。出かける場所がないのに、作業服を着た。母が「今日は休んだら」と言うと、父は「毎日休みみたいなものだ」と笑った。
その笑い方を、宮原は嫌った。
父は昼間、庭の隅で木を削るようになった。工場から持ち帰った、曲がった木片だった。商品には使えない端材を、小刀で少しずつ削った。
何を作っているのか宮原が聞くと、父は「まだ分からん」と答えた。
作るものを決めずに木を削ることが、宮原には理解できなかった。
形が決まっていなければ、必要な寸法も作業手順も決められない。完成条件もない。完成条件がなければ、いつ終わるのかも分からない。
父は結局、その木片を鳥のような形に削った。翼は左右で大きさが違い、首は曲がっていた。鳥だと説明されなければ、何か分からなかったかもしれない。
「何に使うの」
宮原が聞くと、父は少し考えた。
「置く」
「置いて、どうするの」
「置いとく」
父は笑った。
数年後、父が亡くなったあと、宮原はその木の鳥を捨てた。
母が残しておきたがったが、埃をかぶり、置き場所を取っていた。宮原は実家の片づけを一日で終わらせるため、捨てるもの、売るもの、残すものを玄関に三列に分けた。木の鳥は迷わず「捨てる」に置いた。
役に立たなかったからではない。
用途が説明できなかったからだった。
第二章
曲がった木
地方都市の駅に着くと、役所の職員が迎えに来ていた。
三十代半ばほどの男性で、野中と名乗った。ひどく柔らかい話し方をする男だった。
「遠いところ、ありがとうございます」
「予定どおり十三時二十分着です」
宮原は答えた。
野中は一瞬だけ口を半開きにした。
感謝に対して到着時刻を返されたことを、不自然に感じたのかもしれない。だが宮原には、儀礼的な感謝のやり取りがよく分からなかった。
彼は依頼を受けて来ている。交通費も報酬も支払われる。遠いことは、依頼を受ける前から分かっていた。
そこに感謝を足すと、何が変わるのだろう。
車は市街地を抜け、山道へ入った。
窓の外には黒い杉林が続いていた。午後だというのに、木々の間は夕方のように暗かった。斜面から垂れた蔓が、車の屋根を細い指でなぞった。
「集落までは、ここから四十分くらいです」
野中が言った。
「四十分ちょうどですか」
「いや、道路の状態にもよりますけど」
「平均で結構です」
「三十五分から五十分くらいですかね」
十五分も幅がある。
宮原は膝の上の手帳を開いた。
「工事があるのですか」
「いえ。落石とか、枝が落ちていたりとか。山なので」
「今日は降雪もありません」
「雨が降ると、また違います」
空には低い雲が垂れていた。予報では夕方から雨だった。
調査は三時間。写真撮影と簡易測定を含めても、十七時前には集落を出られる。市街地へ戻るのが十八時前。十八時二十二分発の電車に乗れば、二十一時過ぎには自宅へ着く。
翌朝の会議資料は電車内で確認する。夕食は車内で済ませる。入浴は二十二時。就寝は二十三時。
すべて予定表に入っていた。
「集落には何人住んでいますか」
「いまは、二十七人だったと思います」
「だったと思う?」
「先月、一人が施設に入ったので。住民票がどうなっているかまでは」
「実居住者数と住民票人口は分けて管理すべきです」
「そうですね」
野中は素直に頷いた。
「旧集会所の年間使用日数は」
「正式な予約では、去年は三日です」
「正式ではない利用があるのですか」
「雨宿りとか、子どもが勝手に入っていたりとか」
「管理されていないということですか」
「鍵は開いています」
宮原は手帳に書いた。
管理状態に問題あり。
「盗難は」
「盗られるものがありませんから」
野中は笑った。
宮原は笑わなかった。
盗られるものがないことと、管理しなくてよいことは同じではない。
道は細くなり、やがて対向車とすれ違えない幅になった。片側は山の斜面、もう片側は浅い谷になっていた。谷底には茶色い水が流れている。道路脇の排水溝には、濡れた葉と泥が詰まっていた。
排水溝に沿って、ところどころに竹箒や鉄製の鍬が立てかけられていた。
宮原は気になった。
「道具が置かれていますが」
「ああ。雨が降ると、住民が溝の泥を上げるんです」
「行政が管理している道路ですよね」
「そうですけど、業者が来る前に溢れるので」
「住民による道路管理ですか」
「昔からやっています」
「事故があった場合の責任は」
野中は少し考えた。
「そういう話は、聞いたことがないですね」
宮原は手帳へ書こうとして、やめた。
昔からやっている。事故は聞いたことがない。
それは説明ではない。
だが、野中は説明を終えた顔をしていた。
集落の入口には看板も門もなかった。
道路が二つに分かれ、片方が民家の並ぶ斜面へと続いていた。家は十軒ほど見えた。その半分は空き家に見える。庭には草が伸び、窓の内側は暗かった。
人の姿はない。
犬の声もしない。
車の音に気づいた様子もなかった。
野中は、広場のような場所へ車を停めた。
中央に一本の大きな木が立っていた。
幹は途中で不自然に折れ曲がり、そこから枝が四方へ伸びている。片側の枝は枯れ、樹皮の一部は剥がれていた。整った木ではない。
木材として使えば、歩留まりが悪いだろう。
美観に優れているとも言いがたい。
宮原は車を降りた。
地面は乾いていたが、土の匂いが濃かった。
「この木も対象敷地内ですか」
「はい。旧集会所の敷地です」
「樹種は」
「分かりません」
「伐採費用は見積もっていますか」
野中は木を見上げた。
「切るんですか」
「まだ判断していません」
「村の人は、嫌がると思いますよ」
「理由は」
「昔からあるので」
また、それだった。
昔からある。
それだけで残す理由になるなら、世界は古いものだけで埋まってしまう。
旧集会所は、木の向こうにあった。
平屋の木造建築で、玄関のガラス戸には細い亀裂が入っていた。野中が戸を開ける。鍵は本当にかかっていなかった。
中には広い畳の部屋が一つと、小さな台所があった。畳は色あせていたが、思ったほど荒れていない。
壁際には折り畳み机。古い石油ストーブ。子ども用の椅子。葬儀で使うらしい黒い盆。欠けた湯呑み。使いかけの蝋燭。
誰かが、つい先ほどまでいたような気配があった。
宮原は湿度計を出した。
「換気はしていますか」
「村の人が、ときどき開けているみたいです」
「誰が管理責任者ですか」
「一応、自治会長です」
「一応?」
「自治会長も八十二歳なので」
野中の言葉には、どれも角がなかった。
その代わり、どこをつかんでも指が滑った。
宮原は写真を撮った。
床、天井、建具、配電盤。柱の状態を確認し、寸法を測る。
作業を始めて十分ほどすると、玄関から老婆が入ってきた。
白髪を後ろで束ね、紫色の上着を着ていた。手には薄いビニール袋を提げている。
「お客さんかい」
「調査です」
宮原はメジャーを見ながら答えた。
「何の」
「施設の活用可能性調査です」
「使うのかい」
「使えるかどうかを調べています」
老婆は首を傾げた。
「使ってるよ」
宮原は手を止めた。
「年間三日と聞いています」
「三日?」
「予約記録上の使用日数です」
「予約しないからね」
「無断使用ということですか」
老婆は少し笑った。
「ここは誰のものでもないから」
「市の所有です」
「じゃあ、市が使ってるんだね」
宮原は野中を見た。
野中は天井を見上げた。
「具体的には、何に使っていますか」
宮原は訊いた。
「何にって?」
「会合、行事、休憩、保管。そのほかです」
老婆は部屋を見回した。
「何もないときは、何にも使ってないよ」
「使用実態を確認しています」
「いま使ってる」
「いま?」
「話してるだろう」
老婆はビニール袋から蜜柑を取り出し、畳の上に置いた。六個あった。
「食べなさい」
「結構です」
「昼、食べたかい」
「十一時五十分に済ませました」
「そうかい」
老婆はそれ以上勧めなかった。
自分だけが部屋の隅に座り、蜜柑を剥き始めた。皮を途中で切らず、長い螺旋にして剥いていく。白い筋も丁寧に取り除く。
宮原は計測を続けた。
幅七・二メートル。奥行き九・五メートル。台所と倉庫を含めた延べ床面積は八十六平方メートル前後。
耐震性には問題がある。水回りも古い。
立地は悪いが、改修すれば小規模宿泊施設に転用できる可能性がある。何もないことを売りにした滞在型観光。山村生活体験。ワーケーション。デジタルデトックス。
何もない場所へ行くために、高い料金を払う人間はいる。
都会で忙しく働く人間ほど、古い家や不便な生活をありがたがる。
ただし、彼らが求めているのは不便そのものではない。
安全に管理され、時間どおりに提供される不便だ。
「ここを宿にするのかい」
老婆が訊いた。
「まだ決めていません」
「泊まる人がいないのに」
「需要をつくる方法はあります」
「どうやって」
「情報発信、体験プログラム、地域資源との組み合わせです」
「何を体験するんだい」
「農作業や、山村での暮らしです」
「誰が教えるんだい」
「地域の方に協力していただきます」
「私たちが?」
「事業として成立すれば、報酬も設計できます」
老婆は蜜柑の皮を畳の上に円形に置いた。
「忙しくなるねえ」
「収入になります」
「金をもらって、忙しくなるのかい」
「仕事ですから」
「そうかい」
老婆は小さく頷いた。
宮原には、その頷き方が気に入らなかった。
納得したようにも見える。
だが、こちらの説明を理解したというより、何か別のものを見切ったような顔だった。
「お名前は」
「ミツ」
「姓は」
「ここじゃ、ミツで分かるよ」
「記録上、必要です」
「記録するのかい」
「ヒアリング対象者として」
「何を話したか、残すのかい」
「必要な部分は」
「話さなかったことも、残るのかい」
宮原は顔を上げた。
「話さなかったことは、記録できません」
「なら、話した方が少なくなるね」
意味が分からなかった。
宮原は聞き返そうとした。
そのとき、屋根を軽く叩く音がした。
雨だった。
最初は指先で触れるほどの音だった。それが数分のうちに大きくなり、やがて会話を遮るほどになった。
野中が携帯電話を見た。
「かなり降ってきましたね」
「予報では十六時からでした」
「山は早いですから」
宮原は腕時計を確認した。
十五時十二分。
旧診療所と旧分校を調査する時間は残っている。
「次へ移動しましょう」
「少し待った方がいいかもしれません」
「なぜですか」
「道が滑るので」
「四輪駆動ですよね」
「そうですけど」
「であれば、問題ないでしょう」
野中は窓の外を見た。
雨で、広場に薄い水の膜ができている。
「行ってみますか」
野中は諦めたように立ち上がった。
老婆は畳に座ったままだった。
宮原が玄関へ向かうと、老婆が言った。
「道がなくなるよ」
宮原は振り返った。
「何ですか」
「雨が降ると、道がなくなる」
「土砂崩れのことですか」
老婆は蜜柑を一房口へ入れた。
「道がなくなるだけだよ」
「危険を知っているなら、なぜ先に言わなかったのですか」
「いま言った」
宮原は野中を見た。
「よくあるのですか」
「大雨だと、たまに」
「たまにとは、年に何回ですか」
「年によります」
また数字にならない。
宮原は返事をせず、外へ出た。
第三章
道がなくなる
雨粒は大きく、眼鏡へ次々と当たった。
車は集落を出て、杉林へ入った。ワイパーを最速にしても、視界は狭かった。道路を茶色い水が横切っている。落ち葉と小石が流れていた。道路脇の排水溝はすでに溢れ、濁った水が舗装の上へ広がっていた。
百メートルほど進んだところで、野中がブレーキを踏んだ。
前方に土砂があった。
斜面から流れた土と枝が、道路の半分以上を塞いでいる。
「通れますか」
宮原が訊いた。
「無理をすれば」
「無理をした場合の成功率は」
野中は宮原を見た。
「そういう数字は、ないです」
「経験で構いません」
「経験で言えば、戻った方がいいです」
「別の道は」
「ありません」
「迂回路は」
「昔の林道なら」
「車は通れますか」
「無理です」
「徒歩なら」
「今は危ないですよ」
宮原は地図を開いた。通信状態が悪く、地図は途中までしか表示されなかった。
山の反対側へ抜ける細い線がある。
「距離は」
「八キロか、九キロ」
「徒歩で三時間以内ですね」
「雨と山道を計算に入れていますか」
「余裕を見ています」
「道を知らないでしょう」
「地図があります」
「その道、途中で消えてますよ」
「地図上にはあります」
野中は少し黙った。
「宮原さん。地図にある道と、歩ける道は違います」
それは宮原にとって不愉快な言い方だった。
地図は現実を整理したものだ。整理された情報が現実より劣ると、野中は言っている。
「ここに留まる合理的な理由がありません」
宮原は言った。
「道路が直るのは、早くても明日です」
「今日直る可能性もあります」
「この雨では、作業員が入れません」
「連絡していないのに、なぜ分かるのですか」
「分かりますよ」
「根拠は」
「山なので」
その瞬間、低い音がした。
遠くで雷が鳴ったような音だった。しかし、雷よりも地面に近い。
二人は同時に斜面を見た。
土がゆっくりとずれていた。
野中は車を後退させた。
直後、斜面から土砂が落ちた。泥と枝が道路を覆った。車内に湿った土の匂いが入ってきた。
道は完全に塞がれた。
宮原は時計を見た。
十五時三十四分。
予定表の中で、十八時二十二分発の電車が突然遠いものになった。
野中が車を切り返した。
「戻りましょう」
「道路管理者へ連絡してください」
「集落まで戻らないと、電波が入りません」
「さっきは携帯電話を見ていたでしょう」
「時刻を見ただけです」
「時計を持っていないのですか」
「携帯で足ります」
宮原は、自分がなぜそんな質問をしたのか分からなかった。
車が集落へ戻ると、広場には誰もいなかった。
旧集会所へ入る。
ミツは先ほどと同じ場所に座っていた。蜜柑は五個に減っていた。
「戻ったかい」
「道が塞がりました」
野中が言った。
「そうかい」
驚きも、心配も見せない。
まるで、二人が戻ってくることを知っていたようだった。
「道路が崩れると分かっていたのですか」
宮原は訊いた。
「雨が降ったからね」
「なぜ止めなかったのですか」
「言ったよ」
「もっと強く言うべきでしょう」
「聞かなかっただろう」
「危険性を具体的に説明しなかった」
「説明すれば、残ったのかい」
宮原は答えなかった。
おそらく、残らなかった。
説明の仕方が悪いと責めることはできる。
だが、結論は変わらなかった。
野中は携帯電話を持って外へ出た。
ミツが急須を取り出した。
「飲むかい」
「結構です」
「そうかい」
それ以上勧めない。
この女は、何も強制しない。
だからこそ不気味だった。
勧めない人間は、相手の判断を尊重しているように見える。だが同時に、相手が間違えても止めない。
道路が崩れると知っていても、行く人間を行かせる。
宮原が雨の中で転んでも、きっと「転んだかい」としか言わないだろう。
ミツは空の茶碗を宮原の前へ置いた。
「飲まないと言いました」
「置いただけだよ」
「なぜ置くのですか」
「空いてたから」
茶碗の内側には細いひびがあった。欠けた縁を、金色の線がつないでいる。
「金継ぎですか」
「息子が直した」
「価値のある茶碗なのですか」
「ないよ」
「なら、なぜ修理したのですか」
「使えるから」
宮原は少し安心した。
結局、役に立つから残したという話なのだ。
「使えなくなったら、捨てますか」
「さあね」
「そのとき考えるのですか」
「そのときじゃないと、分からないだろう」
「事前に基準を決めておけば、迷いません」
「何の基準だい」
「修理費、代替品の価格、使用頻度です」
ミツは茶碗を見た。
「茶碗一つに、ずいぶん忙しいねえ」
野中が戻ってきた。
髪から水が滴っていた。
「役所にはつながりました。道路管理の業者が来るのは、明日の朝以降です」
「今夜は」
宮原が訊いた。
「ここに泊まるしかないですね」
「市街地側から迎えは」
「反対側から入る道路がありません」
「消防か警察へ依頼してください」
「救助が必要な状況ではないです」
「孤立しています」
「二十七人が、いつも暮らしています」
「私は住民ではありません」
野中は一瞬だけ笑った。
「でも、今夜は住民みたいなものです」
冗談のつもりなのだろう。
宮原は笑えなかった。
今夜だけ。
その四文字で予定表が崩れた。
十八時二十二分の電車。二十一時三十分からの資料確認。二十三時就寝。翌朝五時四十五分起床。六時十分から三十分の運動。七時二十分に自宅を出る。
すべてがずれる。
時間が一列に並んでいる間、宮原は安心できた。
予定は未来の形だった。
その形が突然なくなった。
「電波の入る場所は」
「広場の木の向こうです」
野中が答えた。
「石の上に立つと、入ることがあります」
「ことがあります?」
「安定しません」
宮原は傘を持ち、外へ出た。
雨はさらに強くなっていた。靴がすぐに泥を吸った。
広場中央の曲がった木へ近づく。木の根元には、大きな平たい石があった。
石の上へ乗り、携帯電話を高く掲げた。
電波は一本。
すぐに消えた。
半歩右へ動く。腕を伸ばす。一本。消える。左へ戻る。体を傾ける。一本。
宮原は何度も同じ動作を繰り返した。
雨が眼鏡を濡らした。画面を指で拭く。すぐにまた濡れる。足元の石は滑りやすくなっていた。
十分。十五分。二十分。
一件だけ、メッセージの送信に成功した。
山間部調査中、道路寸断。帰宅困難。明朝会議はオンライン参加の可能性あり。
送信時刻は十六時五十八分。
返信は届かなかった。
届いても受信できないのかもしれない。
宮原は石の上に立ったまま待った。
何を待っているのか、自分でも分からなくなった。
返信。電波。雨が弱まること。道路が開くこと。時間が元へ戻ること。
足が滑った。
宮原は木の幹につかまった。樹皮が手のひらへ食い込んだ。
見上げると、幹は頭上で大きく曲がっていた。
まっすぐ育つことを途中で諦めたような形だった。
木材として使えば加工しにくい。太さも一定ではない。樹皮も傷んでいる。
利用価値なし。
宮原は手帳に書いた言葉を思い出した。
木の向こうから、黒い雨合羽を着た老人が歩いてきた。足元が悪いのに、杖もついていない。
「何をしてる」
「通信です」
「つながったか」
「一度だけ」
「なら、もういいだろう」
「返信を待っています」
老人は空を見上げた。
「雨は、待っても止まらんぞ」
「雨を待っているのではありません」
「そうか」
老人は木の幹へ手を当てた。
「この木は、雷も落ちん」
「なぜですか」
「知らん」
「根拠がないのですか」
「落ちたことがない」
「今後も落ちないとは限りません」
「そうだな」
老人は簡単に認めた。
宮原は拍子抜けした。
迷信を信じているわけではないらしい。
それでも、落ちないと言った。
落ちるかもしれないとも言った。
矛盾している。
だが老人は矛盾を訂正しなかった。
「この木は、何の木ですか」
「知らん」
「樹齢は」
「知らん」
「誰が植えたのですか」
「知らん」
「何に使われていますか」
「何にも」
「なら、なぜ残しているのですか」
老人は木を見上げた。
「切る用事がないからだ」
「役に立たないなら、土地の利用を妨げます」
「ここを何に使う」
「それを調査しています」
「決まってないのか」
「可能性を検討しています」
老人は宮原を見た。
「決まってないのに、木が邪魔なのか」
雨が、二人の間へ落ちていた。
宮原は答えなかった。
老人はそれ以上訊かなかった。
「戻った方がいい」
「私は返信を待っています」
「好きにしろ」
老人は歩き出した。
数歩進んでから、振り返った。
「ただ、溝が詰まるぞ」
「何の話ですか」
「水が上がる」
老人は集会所の方を指した。
広場の端を流れる排水溝から、水が溢れ始めていた。
「行政へ連絡してください」
「いま、連絡できんだろう」
老人は木の脇に立てかけてあった鍬を取った。溝へ入った泥を掻き出す。濁った水が少しだけ流れた。
「手伝え」
「私は調査業務で来ています」
「泊まるんだろう」
「それと道路管理は別です」
「水は別にしてくれんぞ」
老人は再び鍬を泥へ突き立てた。
集会所の床は、道路よりわずかに低い位置にあった。このまま排水溝が溢れれば、玄関へ水が入るかもしれない。
宮原は時計を見た。
十七時十四分。
ここで泥を掻くことは予定にない。報酬にも含まれていない。事故が起きた場合の責任も不明確だ。
しかし、他に泊まる場所はない。
宮原は、木に立てかけてあったもう一本の鍬を取った。
第四章
四時十二分
泥は重かった。
水を含み、鍬の刃へ粘りついた。すくっても、半分は溝へ戻った。
老人は何も教えなかった。
宮原は見よう見まねで泥を上げる。靴の中に水が入り、ズボンへ泥が跳ねた。数分で腕が重くなった。
「どこまでやれば終わりますか」
宮原が訊いた。
「水が流れるまで」
「どの地点までですか」
「詰まってるところまでだ」
「それは、どこですか」
老人は答えなかった。
二人は溝に沿って移動した。
泥を上げる。水が流れる。少し先で、また詰まる。
泥を上げる。水が流れる。その先でまた詰まる。
同じ作業が続いた。
終わりが見えない。
宮原は何度も背後を振り返った。
自分たちが掻き出した場所へ、上流から新しい泥が流れ込んでいる。きれいになったはずの溝が、少しずつ埋まっていく。
「これでは終わりません」
「雨が降ってるからな」
「雨が止まってからやる方が効率的です」
「それまでに水が入る」
「土嚢を積めば」
「土嚢はない」
「準備しておくべきです」
「じゃあ、次は頼む」
老人は真顔で言った。
自分に言われたのか。
役所へ言えという意味なのか。
宮原には分からなかった。
彼は脳内で、状況を言い換えた。
予防保全の欠如。危機管理計画の不在。役割分担の未整備。住民の経験知に依存した属人的運用。
言葉へ変えると、少しだけ落ち着いた。
名前をつければ、問題は輪郭を持つ。
輪郭を持てば、対策を考えられる。
対策を考えられるなら、宮原は役に立てる。
一時間近く泥を掻いた。
雨が弱くなった頃、老人は突然、鍬を置いた。
「終わりですか」
「今日はな」
「まだ詰まっています」
「流れてる」
確かに、水は細く流れていた。
しかし完全ではない。泥は残っている。上流から新しい葉が流れてくる。
「明日、また詰まります」
「明日やる」
老人はそれだけ言った。
宮原は鍬を持ったまま立っていた。
終わっていない。
問題は解決していない。
にもかかわらず、老人は帰ろうとしている。
「お名前は」
宮原が訊いた。
「木崎」
「自治会長ですか」
「そうらしい」
「そうらしい?」
「皆がそう呼ぶ」
木崎は歩いていった。
集会所へ戻ると、畳の上に布団が敷かれていた。
ミツは台所で鍋を温めている。
「勝手に布団を敷いたのですか」
宮原は野中に訊いた。
「泊まるので」
「本人の同意を確認すべきでしょう」
「嫌なら畳めますけど」
宮原は何も言わなかった。
嫌だと言っても帰れない。
布団を畳んでも、泊まる場所がなくなるだけだ。
拒否する権利は形式上ある。
だが、選択肢はない。
この村では、すべてがそうなのかもしれなかった。
食べたくなければ食べなくてよい。飲みたくなければ飲まなくてよい。泥を掻きたくなければ掻かなくてよい。
ただし、その結果は自分で引き受ける。
強制されないということが、こんなに息苦しいものだとは思わなかった。
夕食は、白菜と豆腐の鍋だった。木崎とミツと野中と宮原の四人が、低い机を囲んだ。
木崎は一口すすっただけで、「薄い」と言った。ミツは「血圧が高いくせに」と返し、台所から醤油の瓶を持ってくる代わりに、木崎の手の届かない場所へ塩の容器を移した。木崎は不満そうに鍋をかき回し、野中へ、役所の弁当はまだあのまずい漬物を入れているのかと訊いた。野中は笑いながら、あれは地元の加工組合との契約なので簡単には変えられないと答えた。
宮原は、その会話に少し戸惑った。木崎もミツも、何を訊いても含みのある答えを返す人間ではなかった。塩気が足りなければ文句を言い、役所の漬物がまずければまずいと言う。ミツは野中の髪が薄くなったと指摘し、野中はミツの娘が車を飛ばしすぎると告げ口した。三人は笑った。
その笑いが途切れると、鍋の煮える音と、屋根を叩く雨音だけが残った。
宮原は沈黙が苦手だった。会話があれば情報が増える。情報が増えれば、少なくとも何かは進んでいる。しかし目の前の三人は、話す用事がなくなっただけのように黙り、沈黙を埋めようとはしなかった。
「道路は、毎回このように崩れるのですか」
宮原が訊いた。
木崎は白菜を口へ入れた。
「毎回じゃない」
「何回に一回ですか」
「雨による」
「雨量との相関を記録していますか」
「してない」
「排水溝の泥上げも、日常的に?」
「雨が降れば」
「行政へ改善要望を出すべきです」
「出したよ」
「いつですか」
「前の町長の前」
「何年前ですか」
「さあな」
「回答は」
「予算がない」
「それで終わりですか」
木崎は豆腐を箸で崩した。
「道はあるだろう」
「危険な状態です」
「今日も通った」
「帰れなくなりました」
「戻ってきただろう」
宮原は箸を置いた。
「戻りたい場所へ戻れないという意味です」
木崎はしばらく宮原を見た。
「ここへ戻った」
話が通じない。
いや、言葉の意味は通じている。
そのうえで、別の意味を返している。
宮原は、自分が試されているような気がした。
「この集落で、今後も暮らし続けるつもりですか」
「住めるうちは」
「住めなくなった場合は」
「そのとき考える」
「事前に考えておく必要があります」
「死ぬ準備もか」
「必要だと思います」
「いつ始める」
「年齢や健康状態によります」
「四十なら、まだいいか」
「何の話ですか」
「死ぬ準備だ」
「極端です」
「十年後も、俺には極端だ」
木崎は鍋に白菜を足した。
「早く決めれば、間違わんのか」
「不確実性を減らせます」
「何が起きるか分からんのに」
「分からないから備えるのです」
「何が起きるか分からんのに、何を備える」
「想定可能なリスクです」
「想定できなかったら」
「そのとき対応します」
木崎は少し笑った。
「同じだな」
宮原は反論しようとした。
違う。
事前に考えられることを考えるのと、何も考えずに事態を待つのは違う。
だが、木崎はもう鍋を食べていた。
会話は終わったらしい。
宮原だけが終わっていない。
宮原は手帳の端へ、将来リスクの過小評価、現状維持バイアス、意思決定の先送り、出口戦略の欠如、と小さく書いた。四つの言葉は行儀よく一列に並び、木崎の「住めるうちは」という返事よりも、はるかに扱いやすい形をしていた。
食事が済むと、三人は帰った。
野中は木崎の家に泊まるという。
宮原は一人で集会所に残された。
扉は内側から木の棒を差し込めるようになっていた。鍵ではない。棒を外せば、誰でも入れる。
窓の一つは閉まりきらず、雨水が細く入り込んでいた。
宮原は荷物を部屋の中央へ移動した。
携帯電話は圏外。
ノートパソコンを開く。
翌朝の会議資料を確認する。
誤字を直す。表の数字を確認する。結論部分を短くする。
仕事は進んだ。
電波がないため、新しい連絡は来ない。通知もない。誰にも邪魔されない。
普段なら理想的な環境だった。
しかし宮原は、何度も携帯電話を見た。
圏外。
画面を伏せる。数分後に見る。圏外。
見られないだけで、何かが届いているかもしれない。
見えない用件が、自分の外側に積み上がっている。
それは、暗い部屋の隅で何かが増殖しているような感覚だった。
二十時三十五分。
資料の確認が終わった。
普段なら次の仕事を始める。
だが、必要なデータはオンライン上にある。テレビはない。音楽も聞けない。
宮原は部屋を見回した。
壁に古い時計がかかっていた。
秒針は動いていない。
針は四時十二分を指している。
いつから止まっているのか分からない。
宮原は自分の腕時計を見る。
二十時三十七分。
二分が過ぎていた。
その二分間に、彼は何をしたのか。
部屋を見ただけだった。
仕事にも、移動にも、休息にも分類できない時間。
宮原は立ち上がり、棚を開けた。中には古い帳簿や祭りの写真、葬儀の記録、子どもの絵、黄ばんだ新聞が、誰かに分類されることもなく重ねられていた。その奥に二冊の本があった。一冊は紺色の布張りで、背に『老子道徳経』と金色の文字がかすかに残っている。もう一冊は茶色い紙表紙の『荘子』内篇で、角が丸く削れ、何度も開かれた跡があった。
宮原は先に『老子道徳経』を手に取った。紙は湿気を吸って波打ち、頁をめくるたびに乾いた粉のようなものが指先へ付いた。冒頭の「道可道、非常道。名可名、非常名」という文字の脇には、古い鉛筆で細い線が引かれていた。欄外には、別の誰かの手で「言ったとたんに、もう違う」とだけ書かれている。
宮原はその一文を二度読んだ。二度目には、最初に読んだ意味が少しずれていた。三度目には、どちらが最初だったか分からなくなった。訳文へ目を移すと意味は固定され、本文へ戻るとまた輪郭がほどけた。会議でなら、定義を求める場面だった。
宮原は余白へ鉛筆を走らせた。
「定義不明確。再現性なし。概念整理が必要」
三つの語を書き終えると安心するはずだった。ところが、書き込みだけが頁の上で新しく、周囲から浮いて見えた。
第十一章には、車輪と器と部屋が出てきた。宮原は行を追いながら、容量、開口部、利用可能面積という言葉へ置き換えた。置き換えるたび、原文のどこかが狭くなった。何が狭くなったのかは説明できなかった。
隣の『荘子』内篇を開くと、「人間世」の途中に、材木として使えないため伐られずに残った大木の話があった。宮原は頁の端へ「低市場価値資産の偶発的保全」と書き始めた。だが「偶発的」の途中で余白が尽きた。文字を小さくして続けると、最後の一行は本の綴じ目へ沈み、読めなくなった。
二冊を閉じて腕時計を見ると、二十時四十八分だった。十三分を使っていた。失ったわけではない。古典資料を確認した時間として分類できる。宮原は手帳を開き、崩れた予定を赤いペンで修正した。十五時三十四分に道路が寸断され、十六時に集落へ戻り、十七時に通信を試み、十八時に排水溝の泥を上げ、十九時に食事を取り、十九時三十分から資料確認を行い、二十時三十五分に終了した。その後に古典資料確認十三分を加えると、時刻は二十時四十八分になる。
そこから二十二時三十分の就寝予定まで、一時間四十二分が残った。その時間には、まだ名前がなかった。宮原はしばらく考えた末、「現地待機」と書いた。すると、名のなかった時間が業務上の状態に変わり、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
何もしていないわけではない。
待機している。
だが、書いて数分すると、落ち着かなさは戻った。
待機とは、何かが始まるまでの時間である。
しかし、何が始まるのか分からない。
道路が直るのか。雨が止むのか。朝になるのか。通信が戻るのか。
何も約束されていない。
待つ対象が分からない待機は、ただの空白だった。
宮原は布団に横になった。
雨音が続いている。
屋根のどこかから水が落ちていた。
一定ではない。
三滴。
間。
二滴。
長い間。
一滴。
宮原は数え始めた。
一分間に何滴落ちるか。規則を見つければ、音を管理できる。
十七。二十三。九。三十一。
数えるたびに間隔が変わる。
二十六まで数えたところで、大きな雨音に消された。
宮原は苛立ち、最初から数え直した。
雨は数えることを拒んでいるようだった。
もちろん、そんなはずはない。
自然現象にも法則はある。
人間が把握できないことと、法則がないことは違う。
宮原は目を閉じた。
二十一時三十六分。二十一時五十二分。二十二時十三分。二十二時二十九分。
予定時刻になった。
照明を消す。
暗闇の中でも雨音は消えない。
どれほど時間が経ったのか分からなくなる。
腕時計を見る。
二十二時三十八分。
九分しか経っていない。
もっと長く感じた。
宮原は、この夜が終わらないのではないかと思った。
もちろん朝は来る。地球は回転している。夜は一定の時間で終わる。
分かっている。
だが、数字だけが進み、自分は同じ場所に置かれていた。
道路は塞がれている。通信はない。雨は降っている。予定を前へ進める方法がない。
宮原は、自分が集会所へ閉じ込められているように感じた。
扉は開く。窓も開く。外へ出られる。その気になれば山へ入ることもできる。
それでも閉じ込められていた。
帰ることができない。
予定へ戻れない。
時間が進んでいない。
彼は初めて、時間とは時計の数字ではなく、予定が実行される順序なのだと思った。
予定がなくなれば、時間は形を失う。
形を失った時間は、際限なく広がる。
宮原は起き上がり、照明をつけた。
手帳を開く。
「現地待機」という文字を見る。
待機。
何を待っている。
道路。朝。返信。自分が再び必要とされること。
宮原は赤いペンで、その文字を塗りつぶした。
紙が破れそうになった。
第五章
泥の指標
夜中、物音で目が覚めた。
玄関の方から、何かを擦る音がする。
宮原は腕時計を見た。
午前二時十七分。
棒を差したはずの戸が少し動いていた。
誰かが外から押している。
宮原は布団の中で体を起こした。
「誰ですか」
返事はない。
また戸が動く。
木の棒が溝の中で軋んだ。
宮原は立ち上がり、携帯電話を持った。
圏外。
照明をつける。
音が止まった。
数秒後、今度は窓の下で水音がした。
宮原は恐る恐る近づいた。
外には誰もいない。
ただ、排水溝から溢れた水が集会所の壁へ当たっている。
玄関の戸を押していたのも、水だったのかもしれない。
宮原は棒を外し、戸を少し開けた。
冷たい雨水が足元へ入った。
広場は暗い。
曲がった木だけが、時折遠くの稲光に照らされた。
その下に人が立っているように見えた。
宮原は眼鏡を拭いた。
もう一度見る。
誰もいない。
木の枝だった。
排水溝は完全に詰まり、水が集会所へ向かって流れていた。
宮原は鍬を取った。
泥を掻く。
水が流れる。
少し先で詰まる。
泥を掻く。
また流れる。
はじめのうち、宮原は鞄とノートパソコンを濡らさないために鍬を動かしていた。玄関へ向かう水の筋が細くなるたび、必要な作業を必要なだけ行っているのだと思えた。
宮原は腕時計を見た。二時四十一分。処理を終えた位置へ石を置く。次の石まで一メートル、四分十二秒。さらに三分五十六秒。三分四十一秒。
十五時三十四分。
違う。それは道が崩れた時刻だった。宮原はもう一度時計を見た。二時五十二分。秒針が進んでいるのに、泥の面は同じ高さへ戻ってくる。
鍬の角度を浅くする。右手と左手を入れ替える。いや、持ち替えたのは鍬だった。泥が爪の間へ入り、冷たさが手首の内側をゆっくり上がった。
投入時間。処理距離。再閉塞率。
三つの欄を頭の中に作る。数字を入れる。欄の外から腐った葉の匂いが入ってくる。息を吸うたび、表の罫線が一度だけ歪んだ。
鍬を入れる。泥が一塊なくなる。水が進む。会議のように理解を待たない。メールのように返信を待たない。腕が痛む。痛みは結果ではない。処理対象。
上流から新しい泥が来た。
最初の区間が埋まる。宮原は速度を上げた。
処理速度が流入速度を上回ればいい。
単純な話だった。
単純であるはずだった。
水は彼の成果を、評価する前に消していった。
手のひらの皮が剥け、鍬の柄へ血がにじんだ。泥と血の境目が分からなかった。腰を伸ばそうとすると、背中の筋が硬く引きつった。
一度だけ、柄を地面へ置いた。水の音だけが残った。休止は二十七秒だった。その二十七秒のあいだ、自分の両手がどこにあるのか分からなかった。宮原は足元に落ちていた柄をつかみ直した。
午前四時過ぎ、雨が弱くなった。
宮原は鍬を持ったまま、溝の脇に座った。
水は細く流れていた。
完全ではない。
泥は残っている。
だが、集会所へ入る水は止まっていた。
達成感があった。
誰にも見られていないのに、報告書の成果欄へ書けるような気がした。
翌朝、木崎が来た。
「寝なかったのか」
「排水溝が詰まりました」
「見れば分かる」
「私が作業しなければ、集会所が浸水していました」
木崎は溝を見た。
「水が入ったら、荷物を上へ上げればよかった」
宮原は、すぐには言葉が出なかった。
徹夜の作業が、一瞬で必要ではなかった可能性へ変わった。
「建物が傷みます」
「もう傷んでる」
「さらに悪化します」
「朝になれば、水は引く」
「結果論です」
「結果は出ただろう」
木崎は、宮原の手のひらを見た。
「寝ればよかったのに」
宮原は怒りを感じた。
「問題を放置することを、自然に任せるとは言いません」
木崎は黙っていた。
「自然災害も、雨量、土砂流入量、排水能力、作業時間を記録すれば、必要な対策は推定できます。何も測っていないから、毎回同じことになるんです。この村の問題は、適切な指標が設定されていないことです」
木崎は溝を流れる水を見た。
「測ったら、雨は減るのか」
「減りません。対応を最適化できます」
「最適になったら、泥は来ないのか」
「来ます」
「なら、明日も掻くな」
「論点をすり替えないでください」
「何の論点だ」
宮原は口を閉じた。
木崎の言葉は、論理的にはおかしい。
雨を止められないことと、被害を減らすことは別の問題だ。
間違っているのは木崎の方だった。
それなのに、宮原は自分が負けたように感じた。
木崎は鍬を持ち上げ、木へ立てかけた。
「水は止まらんぞ」
「止める必要はありません。流れを管理すればいい」
「流れたい方へ流れる」
「だから水路をつくるのです」
「水路が詰まれば」
「泥を除く」
木崎は鼻をすすり、「同じだな」と言った。それから急に、昨夜の鍋は本当に薄かった、ミツは自分を病人扱いしすぎる、と腹を立て始めた。宮原が返事をしないでいると、木崎は塩を隠された子どものような顔で家へ帰っていった。
宮原は、手のひらの傷を見た。
痛みは、彼が作業をした証拠だった。
役に立った証拠。
そう考えると、少しだけ安心した。
第六章
金継ぎ
宮原は六時十二分に集会所へ戻った。
予定より二十七分遅い。
外へ出ると、広場は白い霧に包まれていた。
曲がった木の上部が見えない。
根元だけが黒く立っている。
排水溝は再び泥で詰まり始めていた。
昨夜掻き出した場所に、茶色い泥が戻っている。
鍬が二本、昨日と同じように木へ立てかけてあった。
まるで最初から何もしていなかったようだった。
ミツが傘もささずに歩いてきた。
手には昨日と同じ急須がある。
「起きたかい」
「夜中に水が入りました」
「雨だからね」
「排水溝がまた詰まっています」
「そうだね」
「昨日の作業が無駄になっています」
ミツは溝を見た。
「水は流れただろう」
「一時的には」
「なら、昨日は役に立った」
「今日また同じことをするのですか」
「雨が降ればね」
宮原は溝の泥を見た。
作業をしても元へ戻る。
元へ戻るから、また作業をする。
永久に解決しない問題。
「根本的に直すべきです」
「根っこは山だよ」
ミツは集会所へ入った。
宮原も後を追う。
茶が淹れられた。
金継ぎされた茶碗が、宮原の前へ置かれる。
今日は断らなかった。
「私は九時から会議があります」
「そうかい」
「通信できる場所へ行きます」
「木の下」
「不安定です」
「山へ上がれば、入るかもしれない」
「どのくらいですか」
「二十分」
「道は」
「獣道」
「危険ではありませんか」
「雨だからね」
「危険かどうかを訊いています」
「危険だと思うなら、行かなければいい」
「行かなければ会議に出られません」
「出なければいい」
「仕事です」
「じゃあ、行けばいい」
宮原は茶碗を持ったまま黙った。
どちらを選んでも、ミツは止めない。
行けばいい。
行かなければいい。
そのどちらも同じ調子で言う。
選択を尊重されているのではなく、結果だけを押し返されているように感じた。
「あなたは、ここにずっと住んでいるのですか」
「生まれたのは隣」
「今後も?」
「今日、出るよ」
宮原は茶碗を止めた。
「どこへ」
「山向こうの娘の家」
「町ではないのですか」
「町へ行くのは、道が開いてからだよ。娘のところへ移って、そこから病院の近くへ行く」
「では、今日は一時的な移動ですか」
「さあね。もう、ここへは戻らないかもしれない」
昨日と同じように座り、同じ茶碗で茶を飲んでいる。
宮原は、今日も明日も、この女はここにいると思っていた。
根拠はない。
昨日いたから今日もいる。
今日いるから明日もいる。
人間は、相手がいなくなると知らされるまで、その人が存在し続けると思っている。
「出発時刻は」
「車が来たら」
「予定は」
「九時か、十時」
「幅がありすぎます」
「来れば分かるよ」
「娘さんの家までは、どのくらいですか」
「車なら二十分」
「そこから町へ出る道は?」
「ないよ」
宮原は顔を上げた。
「ない?」
「山の向こうへ行くだけだよ。町へ下りるのは、あんたたちが来た道だ」
「では、娘さんの家へ移っても、市街地には出られないということですか」
「今日は出なくていいからね」
「荷物は」
「送った」
「この集会所の管理は」
「誰かがする」
「誰が」
「残る人」
「責任者を決めるべきです」
「決めれば、責任を取るのかい」
「少なくとも所在が明確になります」
「責任の場所が分かれば、水は止まるのかい」
宮原は答えなかった。
ミツは茶を飲み終え、立ち上がった。
「昨日の茶碗」
宮原は言った。
ミツが振り返る。
「息子さんが直したと言っていました」
「ああ」
「今日、持っていかないのですか」
「置いてく」
「あなたがいなくなれば、誰が使うのですか」
「誰か」
「誰も使わなければ」
「空いてる」
「茶碗が?」
「茶碗も、ここも」
ミツは笑った。
「置いときゃ、誰か使うさ。使わなきゃ、それまでだ」
宮原は棚の本を思い出した。だが、頁に何が書いてあったのかは出てこなかった。
金継ぎの線だけが朝の光を拾っていた。空の茶碗は、使われる前にも、使われた後にも見えた。
どちらなのかを決める必要がある、と宮原は思った。なぜ必要なのかは、その場では考えなかった。
可能性だけのために、維持費を払い続ける。
宮原は反論しようとした。
しかしミツは、もう外へ出ていた。
九時になった。
会議には参加できなかった。
宮原は木の下で携帯電話を掲げた。
電波は入らない。
石の上へ立ち、腕を伸ばす。
右へ半歩。左へ半歩。体を傾ける。
昨日と同じ動作を繰り返した。
雨は弱くなっていた。
それでも木から落ちる雫が首筋へ入る。
一瞬だけ電波が一本立った。
メールが受信された。
「状況承知しました。会議はこちらで対応します。安全を優先してください」
それだけだった。
軒下へ戻ると、野中が缶コーヒーを一本差し出した。集落へ来る前に車へ積んでいたもので、すっかり冷えていた。
「施設の管理が曖昧なのは、宮原さんの言うとおりです」
野中は缶の蓋を開けながら言った。排水溝の改修要望も、旧集会所の鍵の設置も、過去に役所の内部で検討されたことがあるらしい。けれど、予算をつけるには利用者数が少なすぎ、廃止しようとすると住民の反対が出る。担当者が替わるたびに資料だけが厚くなり、結論は次の年度へ送られてきた。
「だから、調査を頼んだんです。外の人に切ってもらった方が、役所としては楽なんですよ」
野中はそこまで言ってから、言いすぎたと思ったのか、缶の飲み口を見た。
村の側だけが曖昧なのではなかった。曖昧さを嫌う役所もまた、決定の責任を宮原の報告書へ移そうとしていた。
宮原がいなくても、会議は進んだ。
資料の説明も、質疑も、誰かが代わった。
彼の不在によって何かが困ると、宮原は考えていた。
判断が遅れる。説明が不足する。質問へ答えられない。
しかし、何も起きなかったらしい。
本来なら安心すべきだった。
属人化を避ける。情報を共有する。誰でも対応できるようにする。
宮原が正しいと思い、実践してきたことだ。
その結果、彼がいなくても何も困らない。
理想的な状態だった。
それなのに、胸の奥に小さな穴が開いた。
その感覚には、覚えがあった。
三年前、妻が家を出た日の夜だった。
妻は荷物を二つの箱にまとめ、玄関に置いた。
宮原は、何時に戻るのかと聞いた。
妻は「戻らない」と答えた。
理由を聞くと、「あなたといると、何もしない時間まで評価されている気がする」と言った。
宮原は、その言葉を理解できなかった。
評価していたつもりはない。
休日の午前中を寝て過ごすこと。目的もなく商店街を歩くこと。テレビをつけたまま話さないこと。買う予定のない店へ入ること。
宮原は、なぜそうするのかを訊いていただけだった。
理由が分かれば、一緒にできる。
目的が分かれば、予定へ入れられる。
妻は「そういうところ」と言った。
そういうところでは説明にならない。
宮原は、話し合いの論点を整理しようとした。
生活時間の不一致。家事分担への認識差。コミュニケーション不足。将来計画の不共有。
妻は、整理しないでほしいと言った。
「ただ、一緒にいてほしかった」
宮原は「いま一緒にいる」と答えた。
妻は泣きながら笑った。
その笑い方を、宮原は父の失業後の笑い方と同じだと思った。
だが、なぜ同じなのかは分からなかった。
離婚後、宮原は生活の効率を上げた。
食器を減らした。
洗濯の曜日を固定した。
冷蔵庫の中身を一覧化した。
予定のない休日をなくした。
何もしない時間がなくなれば、誰かにそれを責められることもない。
曲がった木が霧の中に立っていた。調査票には「利用価値なし」と書いてある。
宮原はその文字を親指でこすった。ボールペンの跡は消えなかった。木は枝の片側を失い、幹をねじらせたまま、広場のかなりの面積を占めている。誰かの通行を助けるわけでもなく、果実をつけるわけでもない。
父の木の鳥を捨てた日のごみ袋は、口を結ぶと不自然に片側だけ膨らんだ。宮原は一度ほどき、鳥の首を折れば袋が平らになると考えた。結局、折らずにもう一枚の袋を重ねた。そのとき余計に使った袋の値段まで、なぜか今になって思い出せた。
「また詰まったぞ」
木崎の声がした。
鍬を一本持っている。
もう一本を宮原へ差し出した。
「私は仕事があります」
「会議、終わったんだろう」
「別の業務があります」
「電波ないのに」
「資料の整理はできます」
「水が入れば、できんぞ」
宮原は鍬を受け取らなかった。
木崎は何も言わず、一本で泥を掻き始めた。
宮原は石の上に立ったまま見ていた。
木崎の動きは遅い。
一度に掻き出す泥も少ない。
効率が悪い。
もっと深く鍬を入れ、腰を使えば早い。
宮原は見ていられなくなった。
鍬を取った。
昨日と同じ作業が始まった。
泥を上げる。水が流れる。少し先で詰まる。
泥を上げる。水が流れる。上流から新しい泥が来る。
昨日より雨は弱い。
それでも終わらない。
「この作業は、毎回どのくらい続けるのですか」
「疲れるまで」
「基準になっていません」
「疲れれば、分かる」
「必要な範囲を先に決めるべきです」
「水が流れる範囲だ」
「水は流れ続けています」
「なら、続ければいい」
「終わりがない」
木崎は鍬を止めた。
「終わらせたいのか」
「当然です」
「なぜ」
宮原は、質問の意味が分からなかった。
作業は終わるためにする。
問題は解決するために扱う。
「ほかのことをするためです」
「ほかのことも、終わるのか」
「少なくとも、この作業よりは」
木崎は少し笑った。
「忙しいな」
その言葉が、宮原には侮辱に聞こえた。
「あなたたちは、問題を放置しています」
宮原は鍬を地面へ突き立てた。
「道路も、排水溝も、建物も、その場しのぎです。根本的に改善しないから、同じことを繰り返す。昔からやっているというだけで、合理性を検証しない。だから何も変わらない」
木崎は黙って聞いていた。
「この作業もそうです。毎回泥を掻くより、排水能力を上げた方がいい。土砂が流れ込まない構造に変える。行政へ要望し、予算を確保する。必要なら集落の移転も検討する。それが問題を解決するということです」
「解決したら、どうなる」
「同じ作業をしなくて済みます」
「そのあとは」
「別のことができます」
「何をする」
宮原は答えられなかった。
仕事。次の課題。次の改善。次の予定。
何をするかは、そのとき決めればいい。
そこまで考え、宮原は口を閉じた。
自分も同じ言葉へ戻りかけていた。
木崎は鍬を持ち上げた。
「水は止まらんぞ」
「止める必要はありません。流れを管理すればいい」
「流れたい方へ流れる」
「だから水路をつくるのです」
「水路が詰まれば」
「泥を除く」
「同じだな」
木崎は作業へ戻った。
宮原も泥を掻いた。
第七章
二夜目
昼前、白い軽自動車が広場へ入ってきた。運転していたのは五十代ほどの女性で、娘なのだろうと宮原は思った。車体の下部には乾いた泥が厚く付着し、助手席には折り畳んだ毛布と、空の買い物籠が積まれていた。
「あの車は、どこから来たんですか」
宮原が訊くと、野中は曲がった木の向こうを指した。
「尾根の反対側に、もう一つ小さな集落があるんです。ミツさんの娘さんは、いまそこに住んでいます」
「道路があるのですか」
「二つの集落を結ぶ生活道があります。軽自動車一台が通れるくらいの道です」
「その道を使えば、市街地へ出られるのでは?」
「出られません。向こうの集落で行き止まりです。町へ下りる道は、僕たちが来た道路しかありません」
「では、なぜ移動するのですか」
野中は、宮原の質問の意味を測るように、少しだけ黙った。
「娘さんの家へ行くためでしょう」
「そこから町へは出られないのでしょう」
「今日は、町へ行く必要がないんですよ」
野中はそう言い、車へ向かって手を上げた。
宮原は地図を開いた。二つの集落を結ぶ道は表示されていなかった。画面を拡大すると、山の斜面を横切る薄い灰色の線が途中まで現れ、尾根の手前で消えた。
道路として登録されていないのか、地図の情報が古いのか、それとも単に通信が途切れているのか。
宮原には判断できなかった。
ミツの荷物は、小さな鞄が一つだけだった。何十年も暮らした場所を離れる人間の荷物としては、あまりに少ない。先に送ったと言っていたが、それでも宮原には、人生の大部分が別の場所へ運び出された後の抜け殻を見ているように感じられた。
広場には村人が数人集まった。戻らないかもしれない人間を見送るのだから、もう少し厳粛な空気が生まれるものだと宮原は思っていた。しかし交わされたのは、「じゃあね」「気をつけて」「またな」という短い言葉だけだった。感謝や思い出や寂しさを、誰かが言葉にして閉じるべきではないのか。そうしなければ、この場所で過ごした時間が正式に終わらないように思えた。
ミツは娘が車を停める位置へ何度も文句を言い、もっと玄関へ寄せろ、泥を跳ねるなと窓越しに指示した。娘は聞こえないふりをして、荷物を後部座席へ押し込んだ。ミツは最後まで、自分が去ることより車の停め方の方を気にしているように見えた。
それから宮原を見た。
「茶碗、割るなよ」
「私が管理するのですか」
「いまいるから」
「今日帰る予定です」
「帰れたらね」
その言葉が冗談なのか、道路の状態を知っている者の警告なのか、宮原には判断できなかった。彼が作業員の到着を尋ねると、ミツは「音がしないね」と答え、なぜ誰も確認しないのかと重ねると、「待ってれば分かる」と言った。待っていれば分かる、というのは、宮原にとって回答ではなかった。分からないから確認するのであり、確認せずに時間の経過へ判断を委ねるのは、意思決定の放棄に近い。
ミツが車へ乗ると、宮原は別れの言葉を探した。世話になりました。お気をつけて。お元気で。どれも正しいが、どれも自分の言葉ではないように感じた。彼の口から出たのは、昨日の蜜柑が一つ残っているという報告だけだった。ミツは窓を開け、「食べなさい」と言った。宮原が「そうします」と答えると、車は広場を一周し、曲がった木の脇を通って霧の中へ消えた。
見えなくなった後も、宮原はしばらく道路を見ていた。隣にいた木崎が「行ったな」と言ったので、宮原は寂しくないのかと尋ねた。木崎は「寂しいよ」と答えたが、顔には何も表れていない。「そうは見えません」と言うと、「見せる用事がない」とだけ返し、自分の家へ戻っていった。
宮原は集会所へ入り、畳の上に残された蜜柑を手に取った。皮は少し柔らかく、指を入れると簡単に裂けた。ミツのような長い螺旋にはならず、途中で何度も切れた。一房を口へ入れると、甘かった。栄養があり、水分になり、糖分を補給できる。甘さのあとに、薄い酸味が残った。宮原は二房目を口へ入れ、皮の内側についた白い筋を親指で丸めた。
午後になると、雨は再び強くなった。道路管理の業者は現れず、野中は役所へ連絡しようとしたが、携帯電話には電波が立たなかった。朝にはつながったはずだと宮原が言うと、野中は「運が良かったんでしょう」と答えた。通信に運という表現を使わないでほしいと宮原は訂正した。気象条件や基地局との位置関係、端末の受信性能など、通信が成立するかどうかには原因がある。野中は苦笑し、「それを、ここでは運って言うんですよ」と言った。
宮原は広場へ出て、曲がった木の根元にある石へ立った。右へ半歩、左へ半歩と位置を変え、腕を伸ばし、腰を曲げて端末を掲げた。昨日も朝も、同じ動作を繰り返した。それでも電波は入らない。木崎は離れた場所から見ており、野中も集会所の軒下に立ったまま、どちらも助けようとはしなかった。
自分が見世物にされているような感覚が湧いた。宮原は、本当にここで電波が入るのかと野中へ問いただした。野中は、入ったことがあると聞いていると答えた。自分で確かめたわけではなく、ミツがそう言っていたらしい。だがミツはもういない。確認できない証言だけが残っている。
「もしかして、最初から入らないのではありませんか」
野中の顔から笑いが消えた。「そんな嘘をつく理由がないでしょう」と言うので、宮原は、自分をここへ留める理由がないとも限らないと返した。道路の危険をもっと強く説明すべきだったと責めると、野中も声を硬くした。帰ろうとしたのは宮原であり、自分は止めた。強く止めなかったと言われても、大人なのだから自分で決めたのではないか、と。
宮原は石の上で黙った。選ばされたのか、自分で選んだのか、その境界が分からなくなっていた。この村では誰も命令しない。食べてもよいし、食べなくてもよい。山へ行ってもよいし、行かなくてもよい。泥を掻いてもよいし、水が入るのを見ていてもよい。ただし、選んだ結果だけは、自分へ戻ってくる。
雨が石を濡らし、宮原の足が滑った。片膝を泥につき、携帯電話が地面へ落ちた。画面には細い亀裂が走ったが、電源は入っていた。野中が駆け寄り、大丈夫かと訊いた。宮原は「大丈夫です」と答えた。怪我も軽く、端末も動く。だから事実としては大丈夫だった。それ以外の答え方を、彼は知らなかった。
その夜も、宮原は集会所へ泊まることになった。道路が開かない理由について、野中は作業員が別の災害現場へ回されたためだと説明した。正式な連絡文書はなく、野中が役所の誰かから聞いたというだけだった。宮原には確認する手段がなかった。
夕食には、木崎が握り飯と漬物を持ってきた。ミツはいない。棚には金継ぎされた茶碗だけが残っていた。宮原が明日は帰れるかと尋ねると、木崎は「雨が止まれば」と答えた。予報では夜に止むと言うと、「予報が止めるのか」と返された。宮原は意味のすり替えだと思ったが、木崎は「止んだら分かる」と言ったきり、握り飯を食べ続けた。
握り飯には海苔も具もなく、塩気も薄かった。宮原が地域の米なのかと訊くと、木崎は隣町のものだと答えた。「地域の食材ではないのですか」と重ねると、「米は米だ」と言って会話を終えた。宮原には、産地という情報を取り除いた米が、どこか不完全なものに感じられた。
食事の後、彼は昨夜読んだ『老子道徳経』を棚から取り出した。冒頭の余白へ書いたはずの「定義不明確。再現性なし。概念整理が必要」という文字を探したが、どこにもなかった。古い鉛筆の線も、「言ったとたんに、もう違う」という見知らぬ書き込みも残っている。それなのに、宮原の文字だけが消えていた。
木崎に本を見せると、彼は老眼鏡を探し始めた。上着の胸、ズボンのポケット、座布団の下を順に探し、最後には自分の頭の上に載っていることへ気づいた。頁を顔から遠ざけたり近づけたりしたあと、「ないな」と言った。
宮原が確かに書いたと主張すると、木崎は「鉛筆が薄かったんじゃないか」と答えた。いま使った鉛筆を見せると、「じゃあ紙が悪い」と言い、本の所有者も分からないのに、勝手に書く方が悪いとも付け加えた。原因についての姿勢が一貫していない。
「記録がなければ、後から検証できません」
「こんな古い本を、誰が検証する」
木崎は頁を閉じようとして、隣の『荘子』内篇を床へ落とした。拾い上げた本が偶然「人間世」の大木の箇所で開いたので、外の木と同じようなことが書いてある、と言った。
宮原は樹種を確認しなければ同じかどうか分からないと答えた。木崎は老眼鏡を外し、レンズの泥を袖で拭きながら、「木の名前の話じゃない」と言った。
そこには、大きすぎ、曲がりすぎ、材木として使えないため斧を入れられず、結果として長く生き残った木の話が書かれていた。役に立たないことによって寿命を全うする木。しかし宮原には、逆説より先に管理の欠陥が見えた。用途のない資産が長期間放置されている。価値が低いため処分の優先順位が下がり、意思決定が先送りされている。それを保全と呼ぶのは、結果から意味を作っているだけだ。
宮原がそう説明すると、木崎は「そうか」とだけ言った。反論も同意もせず、言葉が届いたのかさえ示さない。その返事は、明確な否定よりも宮原を不快にした。説明だけが、聞き手を失って部屋の中へ残った。
宮原は父が削った木の鳥を思い出した。何に使うの、と少年の彼は訊いた。父は「置く」と答え、置いてどうするのと重ねると、「置いとく」と笑った。父は用途も完成条件も説明しなかった。説明されなかったものは、存在してよい理由を持たない。だから宮原は、父の死後、あの鳥を捨てた。
工場を失った後の父もまた、自分が存在してよい理由を説明できなかったのかもしれない。その考えが浮かぶと、宮原はすぐに打ち消した。死者の心理は検証できない。検証できない仮説を長く考えても意味はない。それなのに、父が作業服を着たまま庭で木を削っていた背中だけが、いつまでも頭の中から消えなかった。
夜中、宮原は水音で目を覚ました。午前一時四十六分。玄関の隙間から細い水が入り、畳の手前まで来ていた。外へ出ると、雨は弱まっていたが、排水溝は泥で塞がれていた。曲がった木の下に、鍬が二本置かれている。誰もいなかった。
宮原は一人で鍬を取った。
泥を上げる。水が流れる。詰まる。
一メートル。四分十二秒。違う。昨日の数字だ。
荷物を守る。寝る場所を守る。明日まで使えるようにする。明日とは何時からだ。何時までが今日だった。
父の背中が浮かんだ。作業服の色が思い出せない。顔も。木の鳥の曲がった首だけが、ごみ袋を内側から押していた。
なぜ泥を掻いているのかは、もうどうでもよかった。鍬を止めると、世界の方が止まってしまう気がした。止まった世界では、自分が何に使われているのか分からなくなる。
右腕が柄を握る。柄が右腕を握る。
どこまでが宮原聡一で、どこからが濡れた木なのか、境目がなかった。爪の間の泥が脈を打った。宮原はそれを自分の脈だと思うことにした。
霧の向こうで、曲がった木が黒く立っていた。根元に人影があった。木崎か。父か。濡れた作業服か。宮原が呼びかけても動かない。
近づくと、木崎が置き忘れた黒い雨合羽だった。袖の片方が枝へ引っかかり、中に誰もいないのに、濡れた肩だけが呼吸しているように上下していた。
宮原は雨合羽を集会所へ持ち帰った。朝、木崎へ渡すと、「そこに置いたか」と言った。忘れたことを恥じる様子もなく、乾いていない袖へ腕を通し、胸元の煙草が濡れていないかだけを確かめた。
説明はついた。合羽だった。枝だった。風だった。それでも宮原の右腕には、夜のあいだ握られていたような圧力が残っていた。
第八章
三十七分
その日の昼、道路が通れるようになったという連絡が入った。完全な復旧ではなく、車一台が泥の脇をゆっくり通れる幅だけを確保したらしい。野中は「ようやく帰れますね」と言ったが、宮原はすぐには返事をしなかった。帰れるという言葉が、予定へ戻れるという意味なのか、単にこの集落の外へ出られるという意味なのか、彼には分からなくなっていた。
宮原は集会所で荷物をまとめた。ノートパソコン、測定器、書類、充電器、画面に亀裂の入った携帯電話を一つずつ確認し、鞄の決められた位置へ戻した。何も失っていないはずだった。しかし手帳を開くと、二日間の予定欄は赤い修正で埋め尽くされていた。道路の寸断、通信の試行、現地での宿泊、排水作業、調査の継続。事実だけを拾えば、すべてに名前を与えられる。
それでも、その名前の間から何かがこぼれていた。ミツが淹れた渋い茶の温度や、曲がった木の濡れた樹皮、夜の水音、泥の中で鍬を止めた瞬間、甘い蜜柑、自分がいなくても進んだ会議。どれも単独では記録するほどの出来事に思えず、まとめて一つの項目にすることもできなかった。役に立たないことを恐れていた時間、と書くことはできたが、その言葉は私的すぎた。報告書にも旅費精算にも使えない言葉は、宮原にとって記録ではなく感想だった。
野中が外から出発を促した。宮原は最後に金継ぎされた茶碗を棚へ戻した。ミツがいなくなった後、誰がそれを使うのかは分からない。誰も使わないまま、空の器として残るかもしれない。その状態を「保管」と呼ぶのか、「放置」と呼ぶのか、それとも単に「ある」と呼べばよいのか。宮原は決められなかった。
車が広場を出るとき、木崎が窓の外に立っていた。「また来い」と彼は言った。社交辞令にも聞こえ、本当に戻ることを知っているようにも聞こえた。宮原が「調査結果によります」と答えると、木崎は笑い、「結果は、もう出たか」と尋ねた。
「これから分析します」
「何を見てきた」
宮原は施設の状態、利用状況、アクセス条件と答えた。木崎は「それだけか」と言ったが、宮原は返事をしなかった。自分が見たものを過不足なく説明できないことが、問いの不適切さではなく、自分の側の不足であるように感じられたからだった。
車は崩れた道路へ差しかかった。土砂は脇へ寄せられていたが、重機の轍は見えず、作業員の姿もなかった。宮原が業者の作業かと尋ねると、野中は「そう聞いています」と答えた。どの業者が、何時から何時まで、何人で、どの機械を使って作業したのかは確認していないという。通れるようになったのだから、それでよいらしい。
後ろの窓から、集落が少しずつ小さくなっていった。民家の屋根が木々へ沈み、最後まで見えていたのは、曲がった木の上部だけだった。道路は確かに崩れた。宮原自身が土砂の落ちる音を聞き、道が塞がれる瞬間を見ている。それでも、最初から村に閉じ込められるよう仕組まれていたのではないかという疑いは消えなかった。電波が入ると言われた石、遅れた復旧、消えた書き込み。どれにも合理的な説明はつけられる。山の天候、古い通信環境、紙の湿気、疲労による見間違い、誰かの片づけ。説明が可能であることと、その説明が真実であることは同じではなかった。
宮原は、村人たちに何らかの意図があったと仮定してみた。調査結果を変えさせるため、よそ者を試すため、排水溝の泥を掻かせるため。目的を一つずつ置いてみると、出来事は短時間だけ整った。しかし、どの仮説にも余る部分が出た。ミツは去り、木崎は塩気の薄い鍋に腹を立て、野中は役所の責任を外部の報告書へ預けようとしていた。誰も同じ方向を向いていない。
雨が降り、道が崩れ、溝が詰まり、宮原は泥を掻いた。その並びには、企画書のような目的欄がなかった。
市街地のホテルへ着くと、携帯電話に四十三件の通知が届いた。メールやチャット、不在着信、予定変更が一度に画面へ現れたが、緊急のものは一件もなかった。宮原はロビーの椅子へ座り、必要な返信を行い、翌日の予定を組み直し、宿泊費の申請を済ませた。二十三分で処理は終わった。
世界は宮原を待っていなかった。彼が村で泥を掻いている間も、人々は会議をし、食事を取り、電車へ乗り、眠っていた。彼が返信しなければ、誰かが別の判断をした。それは、宮原が長年かけて作ってきた理想的な仕事の状態でもあった。情報は共有され、誰か一人の不在で止まらない。自分がいなくても進む仕組みを望みながら、実際に自分が不要であることを確認すると、宮原は体の内側に空洞が生じるのを感じた。
部屋へ入ると、宮原は手帳の最初の夜を開いた。二十時三十五分から二十二時三十分までの欄には、塗りつぶした「現地待機」の赤い文字が黒ずんで残っていた。彼はその上へ修正テープを貼った。一度では文字が透け、二度重ねると、細長い白い長方形ができた。
そこへ何を書くべきかを考えた。読書、思索、休息、交流、拘束、住民ヒアリング。どの言葉も一部を説明しながら、残りを切り捨てた。宮原はペン先を紙へ近づけたまま、腕時計を見た。二十三時十一分だった。予定では、すでに就寝の準備を始めているはずだった。彼は結局、何も書かずに手帳を閉じた。その時刻を、手帳の欄外へ小さく記した。
翌朝、宮原は目覚ましで起き、予定どおり服を着て、予定どおり朝食を済ませ、予定どおり駅へ向かった。電車の中では一件当たり一分弱でメールを返した。仕事は以前と変わらず早かった。
車窓を山が流れていく中で、宮原はもう一度手帳を開いた。白い欄だけが、周囲の細かな文字から切り離されていた。修正テープをなぞる。紙よりも滑らかで、冷たい。指を離しても、右手の人差し指だけ感覚が戻るのが遅れた。
ホテルへ戻った夜、宮原はノートパソコンで二日間の時間を十五分単位に分割した。移動、調査、道路寸断、住民対応、排水作業、食事、睡眠、通信の試行。蜜柑は食事。茶は住民ヒアリング。古典は資料確認。泥掻きは緊急対応。
差分 00:37:00。
移動時間を一分単位で再計算した。睡眠に入った時刻を修正した。水滴を数えていた時間を推定した。差分は動かなかった。
三十七分が足りない。
不足しているはずなのに、宮原の胃の奥には、冷たいものが余っていた。小さく硬い塊が、飲み込まれないまま喉の下へ引っかかっている。
水を飲んだ。塊は動かなかった。もう一杯飲むと、蜜柑の酸味と泥水の匂いが喉の奥へ戻ってきた。
宮原は自分の脈を数えた。途中で数が飛び、最初からやり直した。三度目には、数えているのが脈なのか秒なのか分からなくなった。
洗面所でしばらく流し台へ手をついた。吐き気はあったが、何も出なかった。鏡の中の顔にも変化はない。宮原は腕時計を見て、体調不良が始まったと推定される時刻を手帳の欄外へ記した。
部屋へ戻ると、表計算ソフトのセルには、まだ三十七分が残っていた。木を見ていた時間なのか。ミツの車が霧へ消えた後なのか。泥の中で鍬を止めた時間なのか。あるいは、そのどれでもないのか。
宮原は白い欄へ小さな付箋を貼った。
「未分類時間 三十七分。要整理」
書いた時刻も、付箋の右下へ添えた。
終章
白い欄
数日後、宮原は調査報告書を完成させた。旧集会所については、耐震性と管理責任に課題があり、現状のまま維持することは推奨できないと記した。宿泊施設への転用は、改修費と需要の不確実性を踏まえ、慎重に判断する必要がある。旧分校は解体を基本とし、再利用可能な資材のみを選別する。広場の曲がった木については、今後の土地利用を妨げる可能性があるため、伐採費用と安全性の確認を求めた。
文章は整っていた。根拠があり、論理があり、結論があった。集落で起きたことは、報告書の中で行政や経営の言葉へ変換された。道が消えたことはアクセスリスクとなり、泥掻きは住民の無償労務へ依存した維持管理となった。ミツの茶は住民ヒアリングであり、木崎の「住めるうちは住む」は移転意向の低さと将来リスクの過小評価を示す発言になった。役に立たない木は、土地利用上の制約へ変わった。
報告書のどこにも、白い欄は入らなかった。書かなかったのではない。書き込める場所がなかった。
提出前の最終確認をしていると、携帯電話が震えた。画面には見覚えのない番号が表示されていた。宮原が名乗ると、相手は何も答えなかった。遠くで水が流れ、その向こうから鍬が泥へ差し込まれるような鈍い音が聞こえた。一度音がして、長い間を置き、もう一度同じ音がした。
宮原が呼びかけると、通話は切れた。履歴を確認したが、番号も着信時刻も残っていなかった。彼はノートを開き、端末の状態、周囲の電波環境、推定される通話時間、聞こえた音の特徴を記録しようとした。しかし通話開始前に時計を見ておらず、継続時間を確定できなかった。
机の端に置いた手帳が目に入った。白い欄に貼った付箋は、片側だけが浮いていた。「未分類時間 三十七分。要整理」という文字の下に、見覚えのない水滴が一つ落ちている。
指で触れると、冷たかった。鞄の中のペットボトルは閉まり、傘は乾いており、窓も閉じている。宮原は水滴の発生原因を確認しようとしたが、滴は修正テープの上へ広がり、その下に隠した赤い文字をゆっくりと浮かび上がらせた。
現地待機。
宮原は、その上から「原因不明の通信障害に関する調査」と書いた。水で文字が滲んだ。彼は同じ線をなぞり直した。
紙はペン先の下で破れた。白い欄の中央に小さな穴が開き、その向こうから次の頁が見えた。会議、移動、資料作成、確認、返信。明日の予定が、十五分ごとの枠に収まっていた。
宮原は水滴を拭かなかった。破れた縁を指で押さえ、その上から修正テープを貼った。一度では穴が透けた。二度、三度と重ねると、赤い文字も、水の跡も、次の頁も見えなくなった。
指で表面をなぞった。滑らかだった。
携帯電話がもう一度震えた。画面には何も表示されていなかった。
二十三時四十四分。
振動あり。
表示なし。
履歴なし。
最後の「なし」を、紙の裏に跡が残るまでなぞった。
手帳を閉じると、その頁だけがわずかに浮いた。
ペンを握り直した。
それでも宮原は、書くことをやめなかった。
参照注記
本作では、『老子道徳経』第一章および第十一章と、『荘子』内篇「人間世」に収められた大木の寓話をモチーフとして参照しています。
作中に登場する古典の内容は、特定の現代語訳からの直接引用ではなく、物語上の要約と解釈を含む表現です。公開時に注記を掲載する場合は、本文の余韻を保つため、記事末尾または別欄に小さく表示する形が適しています。