老いた自分と社会のつながりをつくる
LATER LIFE
老いたあとも、
社会とつながっていたい。
ウニ養殖から考える「ケア付き生産共同体」
老いても社会との接点や役割を失わずに暮らすには、どうすればよいのか。内陸ウニ養殖、介護、農業、再生可能エネルギー、資源循環、データを結ぶ「ケア付き生産共同体」の可能性と課題を考察します。
この長い記事の見取り図
私は、これから年を取る。
今はまだ、自分の足で歩き、自動車を運転し、人と会い、仕事をし、興味を持ったことを調べ、新しい構想を考えることができる。しかし、二十年後、三十年後も、今と同じように暮らせるとは限らない。長時間働くことが難しくなり、自動車を運転できなくなり、階段を上るだけでも息が切れるようになるかもしれない。一人で生活することが難しくなり、誰かの介護や生活支援を受けなければ、日常を維持できなくなる可能性もある。
そのとき私は、安全な部屋と食事、入浴や排せつの介助さえあれば、それだけで満足するのだろうか。
もちろん、安全も介護も必要である。身体機能が低下したとき、適切な支援を受けられることは、人間らしく暮らすための重要な基盤である。高齢者本人やその家族だけで介護を背負い続けることには限界があり、介護サービスや高齢者向け住宅は、これからも社会にとって不可欠な存在であり続けるだろう。
しかし、安全に一日を終えることと、生きている実感を持って一日を過ごすことは、必ずしも同じではない。食事を与えられ、決められた時間に入浴し、レクリエーションへ参加し、事故を起こさずに一日を終えたとしても、それだけで自分が社会の一員であると感じられるとは限らない。人間は、安全に管理されることだけで、生きる意味を得られるわけではない。
私は老いた後も、何かを育てていたい。昨日より少し成長した生き物を見て、明日もまた様子を確認したいと思いたい。自分が世話をしたものが誰かの手に届き、料理になり、「おいしかった」と言ってもらえたことを知りたい。たとえ一日に一時間しか働けなくても、その一時間が社会のどこかにつながっていると感じたい。そして可能であれば、わずかな額であっても、自分の仕事によって収入を得たい。
本稿で考えるのは、そうした未来の暮らしである。
高齢者向けの住まいと介護、農作物の栽培、海のない内陸でのウニ養殖、太陽光と風力による発電、農作物残渣とウニ殻の資源循環、そして生産物の行方を本人へ返すデータ基盤。これらを一つの場所へ集めると、どのような共同体が生まれるだろうか。
これは、現時点で完成した事業計画ではない。設備の仕様は確定しておらず、事業採算も計算し切れていない。法制度上の論点も多く残り、ウニが想定どおり育つ保証もない。多くの目的を一つの事業へ詰め込んだ、非効率で無謀な構想として終わる可能性も十分にある。
それでも、一度すべてをつないで考えてみたい。
私たちの社会では、介護、農業、水産業、エネルギー、廃棄物、雇用、データが、それぞれ異なる制度と組織によって扱われている。個々の制度は、それぞれの目的に照らせば合理的に設計されている。しかし、その境界には、使われない資源、継承されない知識、役割を失った人が取り残されている。
INQELTAは、そうした境界に問いを立てるための場所である。
既存研究、制度、技術、実践によって確認できる範囲。
異なる要素をつなぎ、まだ実証されていない構想。
老いても役割を持ち、参加しない自由も守りたいという選択。
本稿には、既存の研究や制度から確認できる事実と、それらを組み合わせて考えた仮説、そして私自身の価値判断が含まれている。
農作物や食品残渣をウニに給餌する研究、閉鎖循環式陸上養殖の技術、高齢者の社会参加に関する制度、食品トレーサビリティ、ウニ殻の資源利用などについては、すでに一定の研究や実践が存在する。一方で、農作物残渣による育成と昆布による仕上げを分けること、介護や生活支援を受けられる住まいと養殖施設を一体的に構想すること、トレーサビリティを生産者本人の生きがいや役割の実感へ接続することは、現時点では検証を終えていない仮説である。
さらに、私は老いた後も役割を持ちたい、高齢者をサービスの受け手としてだけ扱いたくない、データを管理や監視だけではなく、感謝や意味を本人へ返すために使いたいと考えている。これは科学的事実ではなく、私自身の価値判断である。
事実を仮説のように語らず、仮説を事実であるかのように語らない。そして、価値判断を中立的な技術論に見せかけない。本稿は、その区別を保ちながら、まだ存在していない生活と事業の形を考えようとする試みである。
PART 01
老いることと、社会から切り離されること
高齢者福祉の議論では、医療、介護、安全、住まい、移動、見守りが中心的な課題になる。どれも重要であり、軽視できるものではない。身体が動きにくくなった人へ無理をさせないこと、事故や孤立を防ぐこと、適切な介護を受けられるようにすることは、福祉の基本である。
一方で、高齢者を支援の対象としてだけ捉えると、それまでに培ってきた経験、能力、責任、人との関係が見えにくくなる。
ある人は長年農業を続けてきたかもしれない。ある人は機械を修理し、ある人は商品を売り、別の人は会計、接客、清掃、運転、教育、子育て、組織管理を担ってきたかもしれない。職業として評価される経験だけではなく、暮らしの中で身につけた知恵も含めれば、誰もが何らかのナレッジを持っている。
しかし、介護が必要になった瞬間、それらの経験が社会から切り離されることがある。本人は「自分はもう何もできない」と考えるようになり、周囲も「無理をさせてはいけない」と考える。本人を守ろうとする善意によって、その人が持っていた責任や選択肢が、少しずつ失われていくこともある。
もちろん、無理をさせてはいけない。だが、「無理をさせないこと」と「役割をすべて奪うこと」は同じではない。
農福連携や水福連携では、農業や水産業を通じて、就労、社会参加、地域との交流を生み出す取組が進められている。それらは、単に労働力不足を補うための政策ではない。人が自分の能力や状態に応じて、生産活動や地域社会との接点を持つことに価値があるという考え方を含んでいる。
本稿では、その発想を内陸の閉鎖循環式ウニ養殖へ広げたい。
高齢者が介護や生活支援を受けながらも、本人の希望と健康状態に応じて、生産、研究、交流へ参加できる場所を考える。働ける人だけを対象とするのではなく、作業をする人、観察する人、話を聞く人、意見を述べる人、何もしない人が、同じ共同体の中にいられる仕組みを考えたい。
ここで、最初に明確にしておきたいことがある。
働ける人の方が、働けない人よりも価値があるわけではない。生産性が高い人の方が、人間として優れているわけでもない。
仕事は、生きがいの一つになり得る。しかし、仕事だけが生きがいではない。
神谷美恵子『生きがいについて』が向き合ったのは、効率的に働き、社会的な成果を上げられる人だけの人生ではない。病気や隔離、喪失、苦悩の中にいる人が、それでもなお、生きる意味をどのように見いだし得るのかという問いである。
神谷の生きがい論を、「誰かの役に立てば幸福になれる」という単純な自己啓発へ変えてはいけない。生きがいは、その人に固有のものであり、他人が外から一律に与えられるものではない。労働や経済的生産性だけに還元することもできない。
したがって、本構想が目指すべきなのは、「働けば生きがいが得られる」という単純な仕組みではない。まして、「働けない人には生きがいがない」と感じさせる共同体であってはならない。
仕事は、社会との接点を回復する一つの経路にすぎない。
ウニに餌を与えることもできる。水槽を眺めるだけでもよい。商品名を一緒に考えたり、若い職員へ過去の経験を話したり、出荷先から届いた写真を見たりすることもできる。試食会に参加し、味について感想を述べることも、一つの関わり方である。
何かをする日があってもよい。何もしない日があってもよい。その日の体調や気分によって、共同体との距離を変えられることが重要である。
システムが、人間へ直接生きがいを与えることはできない。
だが、生きがいと出会う機会を増やすことはできるかもしれない。
PART 02
ケア付き生産共同体という考え方
この構想を「老人ホームの横にウニ養殖場を置く」とだけ説明すると、誤解を招く。
介護施設の入居者を、施設運営のための安価な労働力として使う構想に見えるからである。
本稿が考えたいのは、そのようなモデルではない。既存の介護施設へ生産設備を付け足すのではなく、住まい、ケア、生産、研究、交流を、最初から一つの生活圏として設計する。
私はこれを、仮に「ケア付き生産共同体」と呼びたい。
具体的な制度形態は、一つに固定する必要はない。サービス付き高齢者向け住宅、有料老人ホーム、一般の高齢者向け賃貸住宅、訪問介護、通所介護、農業法人、養殖事業者、研究機関などを、それぞれ異なる法人や契約によって組み合わせることも考えられる。
むしろ、居住と介護を提供する主体と、養殖事業を運営する主体は、明確に分けた方がよい可能性がある。住まいを失う不安や介護サービスの利用条件が、就労への圧力として使われてはならないからだ。
働かなくても住み続けられる。参加しなくても介護の質は変わらない。体調が悪ければ休むことができる。一度やめても、本人が希望すれば再び参加できる。
その原則がなければ、「生きがい」という美しい言葉で労働を強制する、危険な施設になってしまう。
また、生産活動への参加は、その実態に応じて区別する必要がある。決められた業務を担い、勤務時間や作業内容が定められ、生産計画上必要な仕事を行うのであれば、適切な雇用契約を結び、賃金、労災、安全管理などを明確に扱うべきである。
給餌、記録、選別、包装、清掃、販売といった業務を、施設の入居者だからという理由だけで「お手伝い」と扱うべきではない。
一方で、本人が希望する日に軽作業や社会活動へ参加し、謝礼を受け取る形も考えられる。しかし、「有償ボランティア」という名称を使えば、労働法の問題が消えるわけではない。指揮命令の有無、時間的な拘束、報酬の性質など、活動の実態によっては労働として扱う必要がある。
さらに、ウニを眺めたり、少量の餌を与えたり、共有モニターを見たり、商品名を考えたりすることは、生産ノルマを伴わない生活や交流の一部として位置付けることができる。
生産に必要な労働を「リハビリ」や「社会参加」と呼び、正当な対価を払わない運用は避けなければならない。逆に、すべてを厳格な雇用にしてしまい、体調や気分に応じた自由な参加を難しくすることも望ましくない。
本人の希望と活動の実態に応じて、関係を透明に設計する必要がある。
ここまでは、契約や制度の話である。
しかし、人間が共同生活を送る場所では、規則に「参加は自由です」と書くだけで、本当に自由が守られるとは限らない。
毎朝、多くの入居者が作業場へ向かう。職員が「今日も参加していただき、ありがとうございます」と笑顔で声をかける。共有モニターには、今月の生産量や出荷実績が表示され、作業へ参加した人には、飲食店から届いた感謝の言葉が伝えられる。
そのような日常が続けば、誰からも参加を命じられていなくても、参加していない人は、自分だけが共同体へ貢献していないように感じるかもしれない。「今日は休みたい」と言えず、体調が悪くても作業場へ向かう人が出てくるかもしれない。
規則の上では自由でも、空気の上では義務になる。
この問題を考えるうえで、山本七平『「空気」の研究』は重要な補助線になる。
山本が論じた「空気」は、法令や命令のように明文化された権力ではない。誰か一人が命じたわけではないにもかかわらず、その場にいる人々の判断や行動を強く拘束する。誰も命令していないからこそ、責任を負う者も見えにくい。
「あの人は毎日働いていて立派だ」「みんなが頑張っているのだから、自分も参加しなければならない」「ウニの売上が施設を支えているのだから、休んでは申し訳ない」。そのような感覚は、明示的な命令がなくても、人を動かす。
だから、「参加しない自由」を本当に守ろうとするなら、規則だけでなく、共同体の空気そのものを設計対象にしなければならない。
生産へ参加した人だけを、過剰に称賛しないことが必要である。仕事をした人へ正当な賃金を支払うことと、その人を人間として高く評価することは分けて考えなければならない。
職員が作業参加者へだけ「偉いですね」「頑張っていますね」と声をかけ続ければ、その言葉は参加していない人への無言の評価になる。何もしない人へ、「今日はどうして参加しなかったのですか」と理由を求める必要もない。休むことを、特別な理由が必要な行為にしてはならない。
「全員へ役割を与える」という考え方にも注意が必要である。
「水槽を見守る係」「植物へ水を与える係」「モニターを確認する係」といった役割を全員へ割り当てれば、一見すると誰もが共同体へ参加できているように見える。しかし、役割を割り当てられた人は、その役割を果たさないことへ罪悪感を持つかもしれない。
必要なのは、全員へ役割を与えることではない。
役割を持つ機会と、役割を持たずに過ごす自由の両方を保障することである。
水槽を眺めている人が異常を発見することもあるだろう。しかし、何も発見しなくてもよい。何もせずに座っている人は、そのままで共同体の一員である。
人間が共同体に存在するために、常に有用性を証明しなければならないとすれば、それは福祉ではなく、終わりのない業績評価である。
共同体の空気は、理念を掲げるだけでは変えられない。
「参加は自由です」「働けない人も大切です」と書いていても、日常の言葉、職員の態度、モニターの表示、広報写真、表彰制度によって、別の空気が生まれる。
だから、共同体の中に、意図的に「水を差す」仕組みが必要になる。
「本当に全員が参加したいのか」「参加していない人が居づらくなっていないか」「この作業は社会参加なのか、それとも本来賃金を払うべき労働なのか」「生きがいという言葉で、経営上必要な労働を正当化していないか」「ウニを育てることが、施設の目的そのものになっていないか」。
こうした問いを、誰かが定期的に差し込まなければならない。
その役割を施設長の善意だけに任せてはいけない。入居者、家族、介護職員、養殖技術者、外部の権利擁護者などが参加する場をつくり、事業上の成果だけでなく、施設内の空気を検討する必要がある。
匿名で意見を出せる仕組みも必要になる。「参加したくないと言いにくい」「作業している人ばかり褒められている」「モニターを見ると焦る」といった感覚は、生産量や事故件数のような数値には表れにくい。
空気の圧力は、公式な苦情になる前に、人の表情、沈黙、欠席、疲労として現れる。
異論を、協調性の欠如として処理しない。
その仕組み自体が、共同体の安全装置になる。
PART 03
なぜウニなのか
養殖する生物としては、魚、エビ、貝類など、さまざまな候補が考えられる。その中で、なぜウニなのか。
最も単純な説明は、ウニが高値で取引される可能性を持つからである。しかし、「高いから儲かる」という説明だけでは浅すぎる。高値で売れる商品ほど、品質への要求も厳しいからだ。
私たちが食べているウニの部分は、主として生殖巣である。殻が大きく、個体重量が重ければ、そのまま商品価値が高くなるわけではない。生殖巣の量だけでなく、色、形、硬さ、甘味、うま味、苦味、香りなどが評価に影響する。
神奈川県水産技術センターの研究報告では、規格外キャベツなどをムラサキウニへ与える研究が行われている。キャベツなどによる短期飼育で身入りが改善し、餌の違いによって甘味や苦味に関係する成分にも差が生じる可能性が示されている。一方で、農作物であれば何でも食べるわけではなく、餌としての適性には大きな差がある。
ウニ養殖の面白さは、単に生物を大きく育てることだけにあるのではない。
何を、いつ、どれくらい食べさせるかによって、商品となる部分の量と質を調整できる可能性がある。
この特性は、小規模で高付加価値を目指す施設と相性がよいかもしれない。大量生産による価格競争ではなく、給餌方法、生産履歴、地域資源、料理人との連携によって価値をつくる余地があるからだ。
もっとも、これは現時点の仮説である。ウニの生育期間が長ければ、資金が回収されるまで時間がかかる。品質が安定しなければ高値では売れず、可食部が少なければ、殻を育てるために長期間、電気と餌を使ったことになる。
高価格であることは、事業成功の保証ではない。
ウニを選ぶ理由は、価格や作業効率だけではない。
ウニは、人間へ言葉を要求しない。犬や猫のように表情や鳴き声で強く訴えかけるわけでもなく、人間のように会話や感情の調整を求めるわけでもない。
愛玩動物との関係には大きな喜びがある一方で、強い感情のやり取りや、喪失の痛みも生じる。人間を相手にする仕事では、相手の期待を読み、適切な感情を表現し続ける負担が生じることもある。
ウニとの関係は、それらとは異なる。
話しかけなくてもよい。明るく振る舞わなくてもよい。機嫌を取る必要もない。それでも、完全に無関係な物体ではない。餌を食べ、水質の変化に反応し、時間をかけて生きている。
感情的な応答は要求しないが、完全には制御できない生命である。
人との会話に疲れた日でも、水槽を見ることはできるかもしれない。誰かと積極的に交流する気分ではなくても、ウニへ餌を与えることはできるかもしれない。
言葉のない生命と、静かに時間を共有する。
世話をすれば必ず期待どおりに育つわけではない。餌を食べないこともあり、理由が分からないまま弱ることもある。死ぬこともある。
だから、ウニは「裏切らない存在」ではない。
むしろ、過剰な感情を要求しないが、思いどおりにはならない「静かな他者」である。
この静かな他者をケアすることが、老いた人の精神や日々の時間にどのような影響を与えるのか。それ自体が、養殖技術とは別に検討すべき研究課題になる。
内陸養殖の利点の一つは、屋内で作業環境を設計できることにある。
海上での作業では、波、風、寒さ、移動、重量物の取扱いなど、高齢者が安全に参加するには難しい条件が多い。一方、屋内の水槽であれば、設備設計次第で作業を細かく分解できる。
01身体を動かす作業
- 水槽周辺の清掃
- 無理のない範囲での餌の運搬
- 簡単な設備確認
02座ってできる軽作業
- 餌の選別と計量
- 包装とラベル貼り
- 短時間で交代できる工程
03観察・記録・対話
- ウニの個体数や大きさの観察
- 水温、給餌量、写真の記録
- 見学者への説明、若い職員への助言
04最初から組み込む安全設計
屋内施設であっても、濡れた床、塩水による腐食、ポンプ、配管、電気設備などの危険は残る。
- 滑りにくい床、十分な通路幅、段差の解消、手すり
- 明るい照明、視覚と音を組み合わせた警報
- 座って休める場所、重量物を持たなくてよい配置
既存の工場に高齢者を無理やり合わせるのではない。
高齢者が無理なく関われる生産施設を、最初から設計する。
PART 04
海のない場所に海をつくる
本構想では、ウニを海面ではなく、内陸の水槽で育てる。
その中心になるのが、閉鎖循環式陸上養殖である。
閉鎖循環式養殖では、飼育水を機械ろ過、生物ろ過、殺菌などによって浄化し、再び水槽へ戻す。海水を大量に運び続けたり、飼育水をそのまま海へ放出したりする方式とは異なり、水温や水質を人為的に管理しやすく、外部環境や病原体の影響を抑えられる可能性がある。
一方で、その安定は、人工設備によって支えられている。
水を循環させるポンプ、アンモニアや亜硝酸を処理する生物ろ過、酸素供給、水温調整、殺菌、各種センサーが必要になる。設備投資や電力使用量が大きくなり、停電や装置故障によって、短時間で養殖生物が大量死する可能性もある。
一関工業高等専門学校の研究・実証では、オゾン浄化技術を用いた閉鎖循環式システムによるウニの内陸養殖が研究され、海のない地域での飼育や出荷につながる取組が進められている。
海のない地域でウニを育て、出荷した事例が存在することは、本構想が完全な空想ではないことを示している。しかし同時に、浄化技術とコストが大きな課題であることも示している。
海から離れることで、海の変化から自由になるわけではない。
自然の海が担っていた水質浄化、酸素供給、温度変化への対応を、人工的な設備とエネルギーによって代替するのである。
餌・電気・酸素・資材
測定・公開・改善
商品・廃棄物・排水・知識
完全密閉、完全循環という言葉は魅力的である。
外部から切り離され、廃棄物を出さず、すべての資源を内部で再利用する施設を想像させる。しかし、現実の養殖施設は完全には閉じない。
餌は外から入る。電気も必要である。酸素、人工海水の原料、設備部品、洗浄資材、包装材も必要になる。死亡個体や汚泥、交換したフィルター、利用できない残渣は外へ出る。
したがって、本構想が目指すのは、閉じた完全な円ではない。
外部との資源流入と流出を可視化し、そのうえで可能な部分の循環率を高める、開放型の循環システムである。
循環を主張するのであれば、投入と排出を隠してはいけない。
太陽光や風力による発電量だけではなく、商用電源から購入した電力も示す。農作物残渣を利用した量だけではなく、餌の加工に使った電気や水も記録する。ウニ殻を肥料化した量だけではなく、処理できず廃棄した量も表示する。
最初から「完全循環」という完成した物語を掲げるよりも、不完全な循環を数字で公開し、失敗を含めて少しずつ改善する方が、研究としても事業としても誠実である。
ウニの陸上養殖を考えるとき、二つの異なるモデルを区別する必要がある。
一つは、海で一定の大きさまで成長したものの、餌不足などによって身入りの悪いウニを短期間飼育し、生殖巣を肥大させる畜養である。もう一つは、種苗や稚ウニから出荷可能な大きさまで、長期間育てる養殖である。
後者の方が「完全養殖」という構想には近い。しかし、事業としての難易度は高い。種苗を安定的に確保し、成長段階に応じた餌と水槽を用意し、長い飼育期間を通じて病気や死亡を抑えなければならない。
最初の実証では、一定の大きさに育ったウニを利用する短期畜養から始める方が現実的だろう。
まずは内陸の水槽で安定的に飼育できるかを確認し、給餌条件によって身入りや味がどのように変化するかを調べる。その後、稚ウニからの長期育成へ進む。
大きな構想を持つことと、最初からすべてを実行することは同じではない。
むしろ、構想を実現するためには、検証する項目を小さく切り離せる設計が必要である。
PART 05
農作物を育て、その一部をウニへ渡す
施設内や近隣で農作物を育てる。
ただし、農作物は最初からウニのためだけに栽培するのではない。人が食べられる部分は、施設の食事や地域での販売、加工品などへ利用する。そのうえで、形が悪いもの、大きさが規格に合わないもの、外葉や茎、収穫し切れなかったもの、加工時に出る残りなどを、ウニの餌として利用できないか検討する。
ここで重要なのは、廃棄物と飼料を同じものとして扱わないことである。
ウニが食べるのか。栄養になるのか。身入りがよくなるのか。色や味へ悪影響を与えないのか。水槽を汚しすぎないか。保存できるのか。農薬や異物を管理できるのか。
これらを確認して初めて、農作物残渣は飼料としての価値を持つ。
既存研究では、キャベツやブロッコリーなどをウニが食べる一方で、植物の種類によってはほとんど食べないことも確認されている。また、餌の種類によって、生殖巣の発達や甘味、苦味などに差が生じる可能性も報告されている。
したがって、「廃棄物であれば何でも、ウニが高級食品へ変えてくれる」という夢物語にはしない。
ウニは、万能な生ごみ処理装置ではない。
規格外農作物や食品残渣は、入手価格だけを見れば安いかもしれない。
しかし、それを飼料として使用するには費用がかかる。
回収し、運搬し、洗浄し、異物を除去し、必要に応じて加熱や乾燥を行い、粉砕し、保管し、給餌しやすい形に加工しなければならない。成分や安全性を確認する費用も発生する。
廃棄物の処理費を減らせたとしても、飼料化に必要な費用の方が大きくなる可能性がある。
したがって、評価すべきなのは、農作物残渣の利用量だけではない。
一キログラムの餌を作るために、どれだけの費用とエネルギーを使ったのか。その餌によって、生殖巣がどれだけ増えたのか。通常の配合飼料と比較して、品質、価格、環境負荷にどのような差があったのか。
そこまで測定して初めて、循環型の飼料と呼べる。
「食品ロスを活用しました」という広報だけで満足してはいけない。
農作物残渣だけでウニを育てることに、過度にこだわる必要はない。
むしろ、成長段階と目的に応じて餌を変えるべきではないか。
育成期には、安定した栄養を供給できる配合飼料や農作物由来の餌を使用する。出荷前の一定期間には、昆布などの海藻を与える。
つまり、身入りをつくる期間と、味や色を整える仕上げの期間を分けるのである。
既存研究では、配合飼料と海藻給餌の違いによって、生殖巣の重量、色、アミノ酸、官能評価などに差が生じる可能性が報告されている。
ここから、次の仮説が生まれる。
農作物や配合飼料によって身入りをつくり、最後に昆布を与えることで、味を仕上げることはできないか。
もちろん、昆布を与えれば必ずおいしくなるとは限らない。給餌期間、昆布の種類と量、水温、ウニの種類や成熟状態によって結果は変わるだろう。
だから、水槽を複数に分ける。
同じ条件で育てたウニについて、仕上げ期の餌だけを変える。昆布、ワカメ、別の海藻、配合飼料、農作物由来の飼料を比較し、生殖巣の重量、色、食感、味、餌代、販売価格の違いを確認する。
こうした実験は、高齢者の仕事とも接続できる。
餌を計量し、水槽ごとに記録し、毎日同じ角度から写真を撮り、食べ残しを観察する。試食会で感想を記録することもできる。
生活の場が、小さな養殖研究所になる。
PART 06
再生可能エネルギーと文明の脆弱性
内陸養殖を太陽光や風力によって動かす。
言葉にすると美しい。
しかし、閉鎖循環式養殖において、電力は単なる経費ではない。生命維持装置そのものである。
ポンプが止まれば、水が循環しない。酸素供給が止まれば、ウニが死ぬ可能性がある。水温管理が停止すれば、飼育環境が急激に変化する。センサーや警報が動かなければ、異常を発見できない。
したがって、太陽光と風力だけに依存する設計は危険である。
現実的には、太陽光発電、小型風力発電、蓄電池、商用電源、非常用発電機、無停電電源装置を組み合わせる必要がある。
再生可能エネルギーは、すべての電力を自給するための象徴ではなく、平常時の購入電力を減らし、電源を分散し、停電時に最低限の生命維持装置を動かすための手段として位置付ける。
特に小型風力発電は、「北海道は風が強い」という理由だけで成立するものではない。
風況、設置高さ、建物や樹木による乱流、着氷、騒音、振動、設備の耐久性、保守費を確認しなければならない。風が強いことと、安定して安全に発電できることは同じではない。
また、再生可能エネルギーを導入する前に、施設全体の消費電力を減らす工夫も必要になる。高効率ポンプ、断熱、排熱利用、適切な水槽配置、運転制御、過剰な設備能力の削減などを組み合わせなければならない。
再生可能エネルギーの設備を設置しただけで、サステナブルになるわけではない。
寺田寅彦は「天災と国防」において、文明が発達し、社会の分業と相互依存が進むほど、一か所の故障が社会全体へ波及しやすくなることを指摘した。
文明は自然の脅威を減らす一方で、新しい依存と脆弱性を生み出す。
閉鎖循環式養殖は、寺田の文明論を小さな施設の中で再現する。
自然の海から切り離すことで、海水温の変動、波浪、外部からの病原体などの影響を抑えられる可能性がある。その代わり、ポンプ、センサー、電気、ろ過設備という人工的な生命維持装置へ依存する。
自然から自由になったのではない。
自然への直接依存を、複雑な人工システムへの依存へ置き換えただけである。
設備が高度になるほど、平常時の効率は上がるかもしれない。同時に、一つの故障が全体を止める可能性も高まる。
ここで必要なのは、効率性だけではない。
予備の設備があること、一部を切り離せること、手動運転へ切り替えられること、部品を確保していること、異常時の訓練を行うこと、地域の人が修理や応急対応をできることが必要になる。
一部が壊れても、全体が生き残る構造を持たなければならない。
そのため、水槽やろ過系は、可能な範囲でモジュール化する。
稚ウニの育成槽、成長槽、仕上げ槽、試験給餌槽、隔離槽を分け、通常時には連携させつつ、異常時には特定の区画を切り離せるようにする。
モジュール化には費用がかかる。配管、バルブ、センサー、予備設備が増え、維持管理も複雑になる。効率だけを見れば、一体型の方が有利かもしれない。
それでも、施設の目的に研究、高齢者の参加、災害対応を含めるのであれば、切り離せることには価値がある。
寺田寅彦の文明論を設備設計へ翻訳するならば、効率を少し犠牲にしても、壊れたときに残るものを用意するという発想になる。
PART 07
循環を暮らしと事業へ変える
ウニを販売・加工すると、可食部以外の殻や内臓残渣が生じる。
ウニ殻や加工残渣については、有機肥料や土壌改良材としての利用可能性を検討した研究が存在する。ウニ殻に含まれるカルシウムや微量元素を、農業へ戻せる可能性がある。
しかし、ウニ殻を畑に撒けば循環が完成するわけではない。
塩分、付着した有機物、臭気、病原体、重金属、粒の大きさ、分解速度、農作物への効果、肥料関係制度上の取扱いを確認しなければならない。殻を洗浄し、乾燥し、粉砕するためには、電力と設備が必要になる。
肥料として販売できたとしても、加工費の方が高くなる可能性もある。水槽から回収した糞や食べ残しについても、塩分や衛生上の問題があり、そのまま農地に使用してよいわけではない。
したがって、最初から「ウニの残渣をすべて農業へ戻す」と断定しない。
ウニ由来残渣のうち、どの部分を、どのような処理によって、どれだけ農業へ戻せるのかを実験する。土壌分析を行い、通常の肥料や土壌改良材を使った場合と作物の生育を比較し、費用と環境負荷を検証する。
うまくいかなければ、循環図を修正する。
サーキュラーエコノミーを説明する図では、資源は美しい円を描いて元の場所へ戻ってくる。しかし、現実の循環は完全な円にはならない。
一部の資源は外へ出て、新たな資源が外から入る。設備は劣化し、利用できない廃棄物も残る。
現実の循環は、円というより、少しずつ位置を変えながら回り続ける螺旋に近い。
農作物を育て、その残渣を餌にし、ウニを育てる。ウニ殻の一部を土壌改良材にし、次の作物を育てる。前回より廃棄物が少し減り、電力消費が少し減り、ウニの品質が少し上がる。
その改善を繰り返す。
完全な循環を宣言するのではなく、循環率と改善過程を公開する。
その方が、研究としても事業としても誠実である。
食品トレーサビリティは、食品がどこから来て、どこへ移動したのかを把握できるよう、取引や移動の記録を残す仕組みである。
通常は、食品事故が起きたときに原因を遡り、対象商品がどこへ出荷されたかを確認するために使われる。
本構想では、この仕組みを生産者側へも返したい。
農作物の栽培区画にIDを付け、収穫日、担当者、数量を記録する。販売用とウニ飼料用へ分け、飼料へ加工した日と量、給餌した水槽を記録する。
ウニの水槽にも番号を付け、水温、塩分、給餌量、死亡数、成長状態などを記録する。出荷時にはロット番号を付け、加工事業者、卸売先、飲食店へと情報をつなぐ。
可能であれば、料理の写真や料理人のコメントを施設へ返してもらう。
施設内のテレビや共有モニターには、「本日、第3水槽のウニが札幌市内の飲食店へ出荷されました」「キャベツ由来の餌を中心に育成し、出荷前の二週間は昆布を与えました」「料理人から、色がよく、甘味が感じられたという評価が届きました」と表示される。
農作物残渣の利用量や、再生可能エネルギーによって賄った電力量、ウニ殻から試作した土壌改良材の使用先も表示できる。
このデータは、管理者が生産性を監視するためだけのものではない。
自分の行為が誰かへ届いたことを、本人へ返すためのデータである。
多くの仕事では、現場の人へ結果が返ってこない。数字は集計され、管理職や経営者に報告される。顧客の反応は営業担当だけが知り、生産者は自分の作ったものを誰が使ったのか分からない。
結果が返ってこない仕事は、自分の行為と社会の変化を結びつけにくい。
「あなたが餌を与えたウニが、今日この料理になった」「あなたが記録したデータによって、給餌方法が改善された」「あなたが選別した農作物が、廃棄されず餌として使われた」。
こうした情報が返ることで、日々の小さな作業が一つの物語になる。
データは、生きがいを数値化するために使うのではない。
生きがいが生まれるかもしれない関係を、見えやすくするために使う。
しかし、データは簡単に人間を順位付けする。
誰が何時間働いたか、どれだけ作業したか、何回ミスをしたかを把握することは、安全管理や賃金計算に必要な場合もある。一方で、その数字が競争や評価へ使われれば、働ける人と働けない人の間に分断が生まれる。
個人ランキングを表示しなくても、数字が常に生産性を称賛する方向で使われれば、「働く人が優れた人である」という空気が生まれる。
空気は、言葉だけから生まれるのではない。画面の配置、表示される数字、職員の拍手、施設の広報写真、表彰制度からも生まれる。
したがって、本人へ返すデータと、管理者が扱うデータを分ける必要がある。
施設内のテレビには、個人の生産量ランキングを表示しない。共同体全体の成果や、生産物の行方を中心に表示する。個人の作業記録は、本人への報酬、安全管理、健康管理に必要な範囲で取り扱う。
本人が望む場合には、自分の担当した水槽や作業成果を確認できるようにする。一方で、モニターを見ない自由も保障する。
「見える化」は常に善ではない。
何を見せ、何を見せないか、誰が見なくてもよいのかも、設計の一部である。
この共同体には、複数の収益源が考えられる。
01考えられる収益・経済効果
- 住居の家賃・共益費、生活支援・介護サービス
- 農作物、加工食品、ウニ、ウニ加工品、飲食店との契約
- 施設見学、体験、教育、研修、共同研究、実証試験
- 購入電力や残渣処理費の削減
02混ぜてはいけない区分会計
住居、介護、農業、養殖、加工・販売、エネルギー、研究・教育、共通管理を区分し、共通費も合理的な基準で配賦する。
経済的利益、社会的価値、環境的価値、研究開発投資を区別し、理念で赤字を隠さない。
03ウニ一個の裏側にある原価
- 水槽、ろ過設備、水温管理、人工海水、種苗、飼料
- 電気、人件費、品質検査、加工、包装、冷蔵輸送
- 廃棄物処理、修繕、設備更新
しかし、収益源が多いことと、事業が安定することは同じではない。
事業が複雑になれば、管理費、人材、契約、設備も増える。
ウニ事業が赤字でも家賃収入があるから問題ない。農業が赤字でも介護報酬があるからよい。発電設備が採算に合わなくても環境に良いからよい。
このように損失を混ぜ続けると、どの事業が本当に成立しているのか分からなくなる。
すべての部門へ単年度黒字を求める必要はない。
しかし、赤字を理念によって隠してはいけない。
ウニが高値で売れることも、事業成功の保証にはならない。
さらに、ウニの可食部は個体全体の一部である。身入りが悪ければ、殻を育てるために長期間、電気と餌を使ったことになる。
夢を事業へ変えるのは、地味な原価計算である。
この共同体を、完成した養殖技術を運用するだけの施設にはしない。
給餌試験、水質管理、省エネルギー、ウニ殻の資源利用、高齢者向けの作業設備、トレーサビリティ、社会参加と生きがい、共同体に生まれる空気など、研究すべき課題は多い。
大学や高専、企業と連携し、施設そのものを実証フィールドにすることが考えられる。
ただし、入居者を一方的な研究対象にしてはいけない。
本人は単なる被験者ではなく、研究に参加する当事者である。研究の目的を説明し、参加しない自由を保障し、個人データの使い方を明示し、研究成果を本人へ返す必要がある。
研究者だけが論文を書き、施設で暮らす人には何も残らない構造を避ける。
日々の観察や経験も、重要なナレッジとして蓄積する。
「同じ水温だったが、この水槽だけ食べ残しが多かった」「この餌は計量しにくい」「モニターの文字が小さくて見えない」「午前中より午後の方が参加しやすい」「断ると申し訳ないような雰囲気を感じた」。
こうした現場の気づきを、技術者、介護職員、入居者が共同で記録する。
研究は、専門家が生活の外から持ち込むものではない。
暮らしの中で生まれた問いを、専門知識へ接続する営みである。
この構想が失敗する理由は、いくらでも考えられる。
01生物・養殖技術の失敗
- ウニが育たない、生殖巣が大きくならない
- 味や色が商品水準に届かない、種苗を確保できない
- 水質管理の失敗、大量死、農作物由来餌による水質悪化
02エネルギー・採算・販売の失敗
- 昆布による仕上げやウニ殻利用が費用に見合わない
- 風力・太陽光の発電不足、蓄電池更新費の増大
- 設備投資、電気代、餌加工費を回収できない
- 品質が安定せず、継続的な取引先を得られない
03人権・労働・共同体の失敗
- 働くことが事実上の義務になり、働けない人が疎外される
- 介護職員が養殖業務まで背負い、高齢者へ危険な作業をさせる
- 正当な対価を払わず、「生きがい」で低賃金労働を正当化する
- 本人の同意が曖昧なまま、個人データを研究や広報へ使う
しかし、この構想で最も警戒すべき失敗は、ウニが死ぬことだけではない。
本構想は、分野をつなぐことを目的としている。
しかし、接続点が増えるほど、責任の所在は曖昧になる。
思想は統合しても、契約、会計、権限、責任まで混ぜてはいけない。
最初から、高齢者住宅、農場、養殖施設、風車、太陽光発電、肥料工場を同時に作ってはいけない。
まず、小規模な水槽でウニを飼育する。
水質、給餌量、死亡率、電力使用量、作業時間、設備故障を記録し、内陸環境で安定的に飼育できるかを確認する。
次に、配合飼料、キャベツ、ブロッコリー、昆布、地域で発生する農作物残渣を比較する。単にウニが食べるかだけではなく、身入り、味、色、水質への影響、費用を確認する。
その一方で、高齢者や介護職員へ構想そのものを提示する。
ウニを育ててみたいと思うか。どのような関わり方なら負担が少ないか。生産物がどこへ届いたか知りたいと思うか。施設のテレビに何を表示してほしいか。働かない人が居づらくならないために、何が必要か。
最初に検証すべきなのは、ウニの生育だけではない。
この構想へ人間がどのように反応するかである。
その後、既存の高齢者施設、介護事業所、シルバー人材センター、地域団体などと連携し、安全な軽作業を試す。餌の計量、記録、ラベル作成、モニターでの観察、商品名の検討、出荷先とのオンライン交流などから始める。
本人が参加したいと思ったのか、疲れなかったか、作業を理解しやすかったか、報酬をどのように感じたか、参加しない自由が守られたか、介護職員の負担が増えなかったかを確認する。
生きがいは、ダッシュボードを作れば自動的に生まれるものではない。
農作物残渣の利用、太陽光、小型風力、蓄電池、ウニ殻の肥料化、稚ウニからの育成は、一つずつ追加する。
追加するたびに、本当に費用が下がったか、環境負荷が減ったか、作業が複雑になりすぎていないか、安全性が低下していないか、共同体の空気が息苦しくなっていないかを評価する。
循環を増やすこと自体を目的にしない。
価値のない循環は、やめる。
人を苦しめる役割も、やめる。
原価、収支、設備、人件費
電力、水、残渣、資源化率
選択、疲労、安心、参加の自由
故障時に残るもの、異論の存在
この構想の成果を、ウニの売上だけで評価することはできない。
一方で、社会的に良いことをしているという理由だけで、経済性を無視することもできない。
経済面では、売上、粗利益、一個当たりの原価、電力費、飼料費、人件費、死亡率、販売可能率、設備稼働率、部門ごとの収支を確認する。補助金を除いた場合に、事業がどのような状態になるかも把握する必要がある。
環境面では、農作物残渣の利用量、商用電力の使用量、再生可能エネルギーの自家消費量、水の補給量、排水量、ウニ殻の資源化率を測る。処理工程や輸送を含めたエネルギー消費も見なければならない。
福祉面では、参加者数や継続率だけでなく、疲労、不安、事故、本人が選べる活動の数、参加しない自由が守られたか、交流が増えたか、本人が役割や達成感を感じたかを確認する。
さらに、「断りにくさ」を評価しなければならない。
制度上は自由でも、空気の上では自由でなかった可能性を調べる。参加を断った後に職員の態度が変わらなかったか。作業へ参加しない人が共有空間を避けるようになっていないか。生産量が落ちたとき、高齢者へ暗黙の期待が向けられていないか。
これらは単純な点数だけでは測れない。
本人の語り、沈黙、表情、生活の変化を丁寧に見る必要がある。
寺田寅彦の問題意識を引き継ぐなら、壊れたときに何が残るかを測る。
山本七平の問題意識を引き継ぐなら、異論を言える人が残っているかを測る。
共同体が順調に見えるときほど、水を差す声が消えていないかを確認する。
ここまで、ウニについて長く書いてきた。
しかし、この構想の本当の主役はウニではない。
高齢者でも、太陽光や風力でもない。
本当の主役は、切り離されていたものを、もう一度つなぐ関係である。
農業から出た残渣と養殖をつなぐ。養殖から出た残渣と農業をつなぐ。地域の風や光と生産をつなぐ。介護を受ける人と仕事をつなぐ。生産者と消費者をつなぐ。データと感謝をつなぐ。過去の経験と次の世代をつなぐ。
そして、参加する人と参加しない人を、切り離さずにつなぐ。
ウニは、その接続を具体的に考えるための媒体である。
ウニでうまくいかなければ、別の生物でもよいのかもしれない。農作物の種類も、地域条件によって変わるだろう。エネルギー設備も、その土地に合ったものを選ぶ必要がある。
大切なのは、特定の設備や技術を守ることではない。
老いた後も社会との関係を失わず、無理のない形で何かを生み出し、その結果を受け取れる暮らしをつくることである。
同時に、何かを生み出さない日にも、共同体の一員でいられる暮らしをつくることである。
養殖だけを考えれば、専門企業が大規模な工場を運営した方が効率的だろう。
農業だけなら、農業法人が広い土地で生産した方がよい。介護だけなら、介護職員が介護へ集中した方がよい。発電だけなら、風況のよい場所に大型風車を置いた方がよい。データだけなら、既存の生産管理システムを導入すればよい。
この構想は、個別最適の観点から見れば非効率かもしれない。
だが、個別最適された社会では、分野と分野の間に価値が残される。
捨てられる農作物、処理費がかかるウニ殻、使われない屋根、継承されない経験、働きたいが週五日は働けない人、安全管理のためだけに蓄積され、本人へ返ってこないデータ。
それらを接続したとき、個別事業の利益だけでは測れない価値が生まれる可能性がある。
もちろん、社会的価値を理由に無限の赤字を許すべきではない。
しかし、経済効率だけで切り捨てられてきた接続を、試す余地はある。
効率を最大化することより、壊れても生き残れること。
全員を動員することより、参加方法を選べること。
一つの目的へ集団を統一することより、異論と休息を残すこと。
その非効率さが、共同体を人間の暮らしに近づける可能性がある。
EPILOGUE
おわりに――自分がじじいになったとき、何を見ていたいか
将来、私がこの共同体で暮らしているとする。若い頃のように一日八時間働くことも、重い物を持つこともできず、物忘れも増えているかもしれない。それでも朝、気が向けば水槽を見に行く。
昨日与えた餌の残りを確かめ、職員や仲間と「今日は少し減らそう」と相談する。体調がよければ一時間だけ作業し、疲れたら休む。気が乗らない日は行かない。誰からも理由を求められず、働く人を見ても申し訳なさを感じずに済む。
午後、共有スペースの画面に、自分が関わった水槽のウニが札幌の飲食店へ出荷されたと表示される。料理の写真と、色や甘味についての感想が届く。世界を変えるような仕事ではない。それでも、昨日の小さな行為が、知らない誰かの食事につながったことは分かる。
隣の畑では、ウニ殻から試作した土壌改良材を使って次の野菜が育ち、屋根の太陽光と敷地の小さな風車が、施設で使う電力の一部を支えている。
ただし、循環は完成していない。電気も餌も外から入り、利用できない殻や廃棄物も残る。設備が壊れ、ウニが死に、野菜が育たない年もあるだろう。
人間関係も同じである。働く人と休む人のあいだに無言の圧力が生まれ、事業を続けたい人が、休みたい人へ期待を向けてしまうこともある。そのたびに、誰かが立ち止まり、目的を言い直す。
この場所は、ウニを生産するために人が暮らしているのではない。
人が暮らすために、ウニを育てているのだ。
昨日より少しだけ循環率を高め、失敗を記録して次の世代へ渡す。空気に流されていたなら、その空気も記録する。私は介護を消費するだけの存在ではなく、この不完全な循環の一員として暮らしたい。同時に、何も生み出せない日にも、自分の価値が減らない場所であってほしい。
この構想は、介護政策、養殖、農業、再生可能エネルギー、地域DX、研究のどれか一つには収まらない。制度と制度、技術と暮らし、効率と冗長性、生産と福祉、参加と不参加、明文化された規則と見えない空気、老いと社会参加のあいだに置かれている。
そこには、まだ名前のない仕組みを考える余地がある。本稿は、いつか年を取る誰かのための構想であり、何よりも、いつかじじいになる私自身が、どのように暮らしたいかを考えるための構想である。
CURRENT CONCLUSION
現時点での結論
この構想が実現可能かどうかは、まだ分からない。
技術的には、陸上でウニを養殖するための要素技術や、農作物残渣を餌として利用する研究が存在する。制度的にも、農福連携や水福連携、高齢者の安全な就労などについて、一定の枠組みや実践がある。
再生可能エネルギー、食品トレーサビリティ、ウニ殻の資源利用についても、それぞれ研究や実践が進められている。
しかし、それらを一つの生活圏へ統合した事業が、そのまま成立するとは限らない。
むしろ、統合することで新たな費用、危険、責任、倫理問題が生まれる。そして、規則や契約を整えたとしても、人々の間に生まれる空気までは、自動的に制御できない。
だから、本構想を「正しい未来」として宣伝するのではなく、検証すべき仮説の集合として扱うべきである。
価格だけでなく、飼育期間、作業分解、安全性、地域条件から検証する。
回収、洗浄、加工、保管まで含めた費用とエネルギーを測る。
発電量だけでなく、バックアップ電源と設備更新を含めて評価する。
効率を少し犠牲にしても、故障時に残る機能が増えるかを確かめる。
管理・監視ではなく、生産物の行方や感謝を本人へ返せるかを検証する。
参加の有無と住まい・ケア・人間的評価を切り離す。
規則だけでなく、言葉、表示、表彰、職員の態度まで検証対象にする。
これらを一つずつ検証する。
失敗したら、その失敗を記録する。
失敗を隠さず、次の仮説へつなげる。
誰も反対しなくなったときには、うまくいっていると判断するのではなく、反対を言えない空気が生まれていないかを疑う。
完成した答えを示すのではなく、問いを育てる。
それが、INQELTAという場所で、この構想を考える意味なのだと思う。
REFERENCES
主な参考文献・参考資料
思想・生きがい・組織
ウニ養殖・給餌・品質
福祉・社会参加・安全
データ・資源循環