INQELTAを始める理由
「吟味されない生は、人間にとって生きるに値しない。」
プラトン『ソクラテスの弁明』38aに基づく意訳
この言葉は、ソクラテスが、人間にとって大切なのは徳について語り、自分自身と他者を絶えず吟味することであると述べた場面に登場します。ここでいう「吟味」とは、単に多くの知識を得ることではなく、自分が正しいと思っていることの根拠を問い、当然だと受け入れてきた前提を、もう一度確かめることだと私は受け取っています。
私たちは何かを考えるとき、つい早く答えを出そうとします。それは正しいのか、間違っているのか。実現できるのか、できないのか。採算が合うのか、合わないのか。もちろん、現実の仕事や生活では、いつまでも考え続けるだけではなく、どこかで判断を下さなければなりません。しかし、答えを急ぐあまり、そもそも最初に置かれた問いが適切であるかを確かめないまま、議論や計画を進めてしまうことがあります。
本当に、その問題設定でよいのでしょうか。
誰かが決めた前提を、そのまま受け入れてはいないでしょうか。
別の分野から見れば、異なる可能性が見えてくるのではないでしょうか。
答えの質は、問いの質を超えることができません。だから私は、完成された答えだけを並べるのではなく、問いが生まれ、知識と結びつき、検討や失敗を重ねながら少しずつ形を変えていく、その思考の過程そのものを残す場所をつくりたいと考えました。それが、INQELTAです。
INQELTAとは
INQELTA(インケルタ)は、INQUIRY(問い・探究)、KNOWLEDGE(知識)、そしてDELTA(変化・差分)という三つの言葉を組み合わせた造語です。問いを立て、知識を集め、それまでとは異なる見方や小さな変化を生み出していく。その一連の思考の流れを、この名前に込めています。
INQUIRY
問い・探究
KNOWLEDGE
知識
DELTA
変化・差分
ここで扱うのは、すでに完成した答えばかりではありません。調べている途中のこと、まだ確信を持てない仮説、実務の中で感じた小さな違和感、異なる分野の知識を結びつけたときに生まれた可能性など、結論になる前の思考も含めて記録していきます。
一般に、研究や実務の成果として表に出るのは、整理された結論や完成した事業、最終的な報告書です。しかし、そこに至るまでには、採用されなかった案、途中で修正された仮説、うまくいかなかった試み、言葉にできないまま残された違和感があります。私は、そうした表面には現れにくい思考の痕跡にも、次の判断を支える知識が含まれていると考えています。
一見、関係のないテーマをつなぐ
INQELTAでは、特定の分野だけを扱うつもりはありません。地域社会DX、行政、法律、政治、思想、ナレッジ管理、エネルギー、農業、水産業、地域産業、そして新しい事業の構想など、私自身が現実の中で出会った問いを、分野の境界に縛られず取り上げていきます。
これらは一見すると、互いに関係のないテーマに見えるかもしれません。しかし、地域社会が抱える現実の課題は、最初から行政の担当部署や学問分野ごとに整理された状態で現れるわけではありません。人口減少という一つの問題にも、産業、交通、福祉、教育、財政、エネルギー、地域文化、人と人との関係が複雑に重なっています。
電子地域通貨を考える場合も、それは単なる決済技術の問題ではありません。法律や会計制度、地域の商業構造、住民の行動、行政施策、データの扱い、利用者の利便性、加盟店の負担、地域内の信頼関係など、異なる領域を同時に見なければ、その仕組みが地域社会の中でどのように作用するのかを十分に理解することはできません。
現実の課題は、私たちが設けた分野の境界を気にしてはくれません。だからこそ、一つの専門分野から答えを出すだけではなく、異なる知識の間に線を引き、それまで別々に見えていたものを結び直す場所が必要だと考えています。INQELTAは、ばらばらに存在している知識がどこでつながり、どこで食い違うのかを考えるための、分野横断的な研究ノートです。
結論ではなく、思考の過程を残す
完成した成果だけを見ても、そこに至るまでの迷いや失敗は見えてきません。しかし実際には、うまくいかなかった方法や途中で捨てられた仮説の中にも、次の判断に役立つ多くの知識が含まれています。
なぜ、その方法を選んだのか。どのような前提に基づいて判断したのか。なぜ、途中で考えを変えたのか。どの情報や経験によって、それまでの認識に変化が生じたのか。こうした判断の経緯が記録されていなければ、完成した結論だけが残り、後から検証したり、別の状況に応用したりすることが難しくなります。
問いを立てる
背景を調べる
仮説をつくる
異なる視点から検証する
暫定的な結論を示す
残された問いを記録する
反対に、判断に至る過程が残されていれば、後から別の人がそれを確かめ、修正し、新たな知識へつなげることができます。過去の判断を無条件に正しいものとして保存するのではなく、当時の状況や根拠を含めて残すことで、知識は固定された答えではなく、更新可能な土台になります。ここで示す結論も最終回答ではありません。新しい事実によって考えが変わるなら、その変化や差分もDELTAとして記録します。
AIの時代に、何を残すのか
生成AIによって、情報を探し、比較し、文章として整理することは、以前よりもはるかに容易になりました。これからは、単に多くの情報を記憶していることや、既存の知識を分かりやすく並べ直すことだけでは、独自の価値を示しにくくなっていくかもしれません。
AIが支援できること
情報の収集、比較、整理、仮説の検討、異なる知識の接続。
人間が引き受けること
何を問うのか、誰のために考えるのか、どの価値と方向を選ぶのか。
それでも、人間が考える意味がなくなるわけではありません。何に違和感を持つのか、何を問題として捉えるのか、どの価値を守ろうとするのか、誰のために何を変えたいのかという問いは、その人がこれまで生きてきた経験、関わってきた人々、成功だけではなく失敗や葛藤を通して生まれます。
INQELTAでは、AIを答えを代わりに出してくれる道具としてだけではなく、自分の前提を問い直し、仮説を揺さぶり、見落としていた視点を提示してくれる思考の相棒として活用します。AIから返された答えをそのまま受け入れるのではなく、そこへさらに問いを重ね、人間の経験や価値判断と結びつけることで、新たな知識へ変えていくことを目指します。
まだ名前のない可能性へ
新しい事業や制度、技術、地域の取り組みは、最初から完成された名前や明確な形を持って現れるわけではありません。誰かが日常の中で小さな違和感を抱き、問いを立て、調べ、試し、失敗し、その経験を他者と共有しながら、少しずつ形にしていきます。
その途中では、それが本当に役に立つのか、実現できるのか、事業として成り立つのかさえ分からないことがあります。すぐに成果が見えなければ、考えること自体が無駄に思えることもあるでしょう。
けれども、まだ答えが出ていないからといって、考える価値がないわけではありません。むしろ、すでに誰もが答えを知っている問題よりも、まだ十分に言葉にされておらず、異なる知識が結びついていない問いの中にこそ、新しい可能性が眠っているのではないでしょうか。
INQELTAは、答えを断定するためだけの場所ではありません。日常や実務の中で生まれた問いを放置せず、調べ、考え、知識として残し、その知識を次の変化へつなげていくための場所です。ソクラテスが問いによって人々の思い込みを揺さぶったように、ここでもまた、当然だと思われている前提を一度立ち止まって見つめ直したいと思います。ここから、まだ名前のない可能性を探していきます。