「人的資源」と呼ばれた人間、捨てられる知識、そしてDX
「人が腐る」のか、それとも声と記憶を捨てる組織が腐るのか。人的資源、暗黙知、異論、AIとRAGを手掛かりに、DXが組織の防腐剤にも腐敗促進剤にもなり得る条件を考え、組織の記憶を誰のために残すのかを問い直す。
組織はなぜ、異論と記憶を失うのか
DXが進まない理由について話していると、最後によくこの言葉が出てきます。
システムを導入しても、それを使う人の意識が変わりません。制度を変えても、古い慣習が残ります。情報を共有しようとしても、特定の誰かが抱え込んでしまいます。
確かに、人の問題はあります。
自分の仕事を手放したくない人もいます。立場を守るために情報を隠す人もいます。新しい仕組みを理解しようとせず、最初から反対する人もいます。何を提案しても「前例がない」で話を止める人もいます。
しかし、そこで「人だよね」と言ってしまえば、原因の分析は終わります。
なぜ、その人は情報を抱え込むようになったのでしょうか。なぜ、失敗を隠すことが合理的になったのでしょうか。なぜ、問題を報告した人が損をするのでしょうか。なぜ、意見の内容よりも、誰が言ったのかが重視されるのでしょうか。
本当に腐っているのは、その人なのでしょうか。
それとも、そのように振る舞わなければ生き残れない組織の方なのでしょうか。
ここでいう「腐敗」とは、不正や悪意だけを指すものではありません。異論や失敗の記憶を失い、自らの前提を問い直せなくなっていく状態を指しています。
私は、複数の組織や事業に外部の立場から関わるなかで、何度も同じような光景を見てきました。
問題が起きた後の記録は、驚くほどきれいに整っています。何が決まり、誰が対応し、どのように収束したのかは残されています。
しかし、その問題が起きる前に誰が違和感を抱いていたのか、なぜその声が拾われなかったのか、どのような代替案が検討され、どこで消えたのかは、ほとんど残っていません。
記録が存在しないのではありません。
会議の雑談、担当者同士の会話、チャット上のやり取り、下書き段階の資料には、断片的な記憶が残っています。
ところが、正式な報告書や決裁文書になる過程で、それらは「必要のない情報」として取り除かれます。迷いや対立は消え、最終的な結論だけが組織の公式な記憶になります。
組織にとって扱いやすい形へ、過去が編集されているのです。
この記事の見取り図
現代の組織は、人を「人的資源」と呼びます。
人材配置、人材育成、人的資本、人員の最適化。組織を運営する以上、人の能力や配置を考えることは避けられません。言葉そのものを否定したところで、現実の問題が解決するわけでもありません。
それでも、人間を「資源」と呼ぶことには、どこか不気味さが残ります。
石油、鉄鉱石、資金、設備。資源とは通常、何かの目的を達成するために調達され、配分され、利用され、場合によっては消費されるものです。
人間を資源として見る組織では、本人が何を知り、何を疑い、何に違和感を抱いているかよりも、その人がどれだけ効率よく組織の目的へ貢献できるかが優先されます。
そして、組織に都合よく適応した人が「優秀」と呼ばれるようになります。
問いを発する人よりも、空気を読める人が評価されます。問題を発見する人よりも、問題を報告しない人が重宝されます。根拠を求める人よりも、前例に従う人の方が扱いやすいと考えられます。
正しいことを言う人よりも、正しい順番で、正しい立場の人に、正しいタイミングで話せる人が生き残ります。
もちろん、組織で働く以上、他者への配慮や手順は必要です。
しかし、その手順が、内容を検討するためではなく、発言者の立場を確認するために使われ始めたとき、組織は静かに腐り始めます。
人間が組織へ適応しているように見えて、実際には組織の病理へ適応している可能性があるからです。
組織の腐敗という言葉からは、不正、隠蔽、癒着、ハラスメントといった、分かりやすい問題が連想されます。
しかし、腐敗はもっと静かに始まります。
それは、組織が「必要な情報」と「不要な情報」を選別するときです。
一般的なナレッジ管理では、完成した情報が重視されます。正式な報告書、承認されたマニュアル、成功事例、決定事項、数値で示せる成果などです。
その一方で、採用されなかった提案、会議で出された反対意見、途中で中止された試行、担当者が感じた小さな違和感、例外的な対応、失敗した理由、別の選択肢を採用しなかった理由などは残りにくいものです。
その時点では、確かに役に立たないように見えるかもしれません。
情報として整理されておらず、明確な結論もありません。それを読んだからといって、すぐに何かが改善されるわけでもありません。保存を続ければ、情報量だけが増えていきます。
そのため、不要な情報として捨てられます。
しかし、組織が未来に必要とする知識は、現在の組織が価値を判断できるものだけとは限りません。
現在の評価基準では価値が分からない情報にこそ、環境が変化したときの選択肢が隠されている可能性があります。
組織の腐敗は、都合の悪い情報を隠すことだけから始まるのではありません。
現時点では役に立たないという理由で、未来に必要になるかもしれない情報を捨てることからも始まります。
そして、捨てられた情報の多くは、二度と復元できません。
組織論研究者のジェームズ・G・マーチは、組織学習を「探索」と「活用」の緊張関係として捉えました。
“the exploration of new possibilities and the exploitation of old certainties”
「新しい可能性の探索と、既知の確実性の活用」
――ジェームズ・G・マーチ(筆者訳)
マーチによれば、組織には、すでに分かっている方法を改善する「活用」と、まだ価値の分からない可能性を試す「探索」の両方が必要です。
しかし、探索の成果は不確実であり、結果が出るまでにも時間がかかります。
成功するか分からない提案よりも、すでに結果を出している方法が選ばれます。説明しにくい現場の違和感よりも、分かりやすいKPIが重視されます。将来役に立つかもしれない記録よりも、今月や今年度の成果が優先されます。
組織が短期的な効率を求めるほど、既存の知識を活用することが優先され、新しい可能性を探索する余地は削られていきます。
活用だけに偏った組織は、短期的には優秀に見えます。手続は速くなり、成果は数字になり、報告書はきれいにまとまります。
しかし、環境が変化したときに、新しい方法を見つけられなくなります。
皮肉なことに、過去の成功に最も忠実な組織ほど、未来の変化には弱くなるのです。
役に立たない情報を残すことは、非効率に見えます。
しかし、その非効率さは、未来の可能性を失わないための余白でもあります。
組織に必要なのは、すべての無駄を消すことではありません。
何が無駄なのかを、現在の価値基準だけで決めつけないことなのではないでしょうか。
中国・前漢の時代にまとめられた『塩鉄論』には、塩や鉄などの専売政策をめぐり、国家財政を重視する政府側と、民衆生活や徳治を重んじる賢良・文学との論争が記録されています。
そのもとになった議論は紀元前81年に行われ、後に桓寛が討論形式でまとめました。内容は経済政策だけでなく、政治、社会、思想、人間観にまで及んでいます。
『塩鉄論』の価値は、当時の政策の正解が書かれていることだけにあるのではありません。
国家の財政をどのように維持するのか。民間の利益と公共の利益をどのように調整するのか。効率と倫理のどちらを優先するのか。
簡単には決着しない対立が、対立したまま残されています。
現代の会議録であれば、「協議の結果、現行制度を継続することとなった」という一文に圧縮されていたかもしれません。
誰が何を懸念したのか。どのような反論があったのか。なぜ別の案を採用しなかったのか。
そうした結論に至るまでの揺れは、しばしば記録から削除されます。
しかし、『塩鉄論』は、その面倒な部分を残しました。
正解だけではなく、異論を記憶したのです。
だからこそ、二千年以上が経過しても、現代の政策や組織を考える材料になり得ます。
私は以前、CIVIOの「『塩鉄論』から考える地域社会DX」で、この論争を政策や地域社会DXの視点から取り上げました。
そこでは、国家財政と民衆生活、効率と倫理の対立に注目しました。本稿でさらに考えたいのは、その議論が一つの結論だけに圧縮されず、反対意見を含んだ状態で残されたことの意味です。
『塩鉄論』は、現代的に言えば、二千年前に作られた政策ナレッジベースです。
しかも、成功事例だけを集めたナレッジベースではありません。
対立、批判、疑問、価値観の衝突が含まれています。
ナレッジ管理とは、正しい答えだけを保存することではありません。
未来の誰かが別の問いを投げかけられるように、答えへ至らなかった過程まで残すことなのです。
クリス・アージリスは、組織の学習を「シングルループ学習」と「ダブルループ学習」に分けました。
シングルループ学習では、設定された目標や前提を変えずに、行動や手段だけを修正します。
書類の提出が遅ければ、催促を自動化します。ミスが多ければ、確認欄を増やします。会議が長ければ、時間を制限します。DXが進まなければ、研修の回数を増やします。
これらは、いずれも一定の改善ではあります。
しかし、そもそもその書類は必要なのでしょうか。なぜミスを報告しにくいのでしょうか。なぜ会議では何も決められないのでしょうか。そのDXは誰のために行われているのでしょうか。
シングルループ学習では、こうした前提そのものは問われません。
一方、ダブルループ学習では、問題を修正するために、組織の方針や目標そのものへ疑問を向けます。アージリスは、表面的な行動の修正だけでなく、その行動を生み出す前提を問い直す必要性を論じました。
ところが、組織は自らの前提を疑うことが苦手です。
方針を作った人が、その方針を評価します。制度を設計した部署が、その制度の成果を報告します。事業を推進した人が、その事業を続けるべきか判断します。
失敗を認めることが、自分の判断や立場を傷つけるのであれば、問題は「改善可能な小さな課題」として処理されます。
目標そのものが間違っている可能性には、触れません。
数字が悪ければ、周知が足りなかったことになります。利用されなければ、利用者の理解が不足していたことになります。現場が疲弊すれば、職員の意識改革が必要だという話になります。
仕組みの失敗が、いつの間にか人間の努力不足へ翻訳されます。
こうして組織は、学習しているように見せながら、同じ前提を守り続けます。
成功事例だけを保存するナレッジ管理は、この自己防衛をさらに強くします。
反対意見を議事録から消し、失敗した提案を廃棄し、きれいな成果だけをナレッジとして登録すれば、組織は自分自身を疑う材料を失います。
組織が自らを疑うためには、自らにとって都合の悪い記録が必要なのです。
マイケル・ポランニーは、暗黙知を表す有名な言葉を残しています。
“We can know more than we can tell.”
「私たちは、語ることができる以上のことを知っています」
――マイケル・ポランニー(筆者訳)
ポランニーは、私たちは人の顔を見分けられても、どの特徴によって識別したのかを完全には説明できないという例を挙げています。人間の認識や技能には、言葉だけでは表現しきれない知識が含まれているのです。
現場で長く働く人も、すべてを言葉で説明できなくても、何かがおかしいと感じることがあります。
数字そのものには問題がないのに、いつもと少し違うと感じます。手続上は正しいのに、このまま進めると問題が起きそうだと予感します。説明の内容は間違っていなくても、住民や利用者には伝わらないだろうと分かります。
それは、単なる勘として処理されるかもしれません。
しかし、長年の経験から得た無数の手掛かりが、本人にも完全には説明できない形で統合されている可能性があります。
組織は、説明できない知識を扱うことが苦手です。
そのため、「個人の感想」「雑談」「根拠のない意見」として切り捨てます。
ところが、問題が起きた後になると、「誰か気づいていなかったのか」と尋ねます。
気づいていた人は、いたのかもしれません。
ただ、その違和感を受け止め、記録し、別の人が持つ知識と結び付ける仕組みがなかっただけではないでしょうか。
すべての違和感が正しいわけではありません。
根拠のない不安や、単なる好き嫌いも含まれます。
だからといって、説明できない情報を最初から削除してよいことにはなりません。
正誤を判断できない段階で残しておくことと、正しい情報として採用することは別だからです。
知識を残すとは、すべてを信じることではありません。
未来の検証に耐えられるよう、消さずに置いておくことです。
アルバート・O・ハーシュマンは、組織の状態が悪化したときに人が取り得る反応を、「離脱」と「発言」という言葉で整理しました。
問題のある組織から去ることが離脱です。組織の内部に残り、改善を求めることが発言です。
ハーシュマンは発言を、組織の内部から変化へ影響を与えようとする行為として捉えました。
発言は、組織にとって耳障りなものです。
会議を長引かせます。決まりかけた話を元に戻します。責任の所在を問い直します。管理職や経営者の判断へ異議を唱えます。
そのため、発言する人は、協調性がない人、細かい人、面倒な人として扱われやすくなります。
正面から否定されなくても、会議に呼ばれなくなります。重要な情報が少し遅れて共有されます。「あの人は難しいから」という一言で、発言の内容ではなく人格の問題へ置き換えられます。
やがて、その人は黙るか、組織を去ります。
そして、組織は静かになります。
しかし、その静けさは、問題がなくなったことを意味しません。
問題を言葉にする人が、いなくなっただけかもしれません。
組織にとって本当に危険なのは、批判されている状態ではありません。
誰からも批判されなくなった状態です。
腐敗した組織は、人を失います。
しかし、失うのは単なる人員数ではありません。
その人が持っていた経験や、過去の失敗の記憶、非公式な人間関係、まだ言語化されていない問題意識も一緒に失われます。
組織は、その人が辞めたという事実は記録します。
しかし、なぜその人が発言できなくなったのか、なぜ組織を離れようと考えたのかは、ほとんど記録しません。
退職理由は「一身上の都合」という言葉に圧縮されます。
人間一人が抱えていた組織への異論も、改善の可能性も、たった六文字ほどの便利な表現によって消去されます。
ここから先は、一つの仮説です。
日本の学校や職場では、与えられた問いに対し、正しい答えを早く出す能力が高く評価されてきたのではないでしょうか。
もちろん、基礎的な知識や正答を学ぶことは必要です。
計算問題に正解がなければ困ります。法令や安全基準を曖昧に扱うこともできません。すでに社会で共有されている知識を正確に学ぶことには、明確な価値があります。
しかし、「正解を出す力」と「正解のない問いを抱え続ける力」は、同じではありません。
答えが出ない議論、すぐには役に立たない知識、結論へ収束しない対話、何年後に意味を持つか分からない記録。
こうしたものに耐える力は、効率や正答率だけを評価していては育ちにくいものです。
「それは何の役に立つのですか」と問うこと自体は大切です。
しかし、その問いが「今すぐ役に立たないものには、存在する価値がない」という意味へ変わったとき、知識の幅は急速に狭くなります。
学校では、先生が想定した正解を答えることが求められます。
組織では、上司が理解できる説明が求められます。
会議では、議論の過程よりも、決定事項を簡潔に残すことが求められます。
その結果、私たちは正しい答えを出す訓練は受けても、まだ答えになっていないものを保存する訓練を、十分には受けてこなかったのかもしれません。
異論をすぐに論破しないこと。違和感をすぐに結論へ変換しないこと。意味の分からない記録を、意味が分からないまま残しておくこと。
それらは優柔不断ではありません。
未来の知性に対する、最低限の礼儀なのではないでしょうか。
従来の情報システムでは、情報を整理し、分類し、不要なものを削除することが重視されてきました。
人間が理解できる分類へ整理しなければ、必要な情報を探せなかったからです。
そのため、正式文書と参考資料を分け、最新版と旧版を分け、保存すべき情報と廃棄すべき情報を分けてきました。
もちろん、すべての情報を無期限に保存することは現実的ではありません。
個人情報、機密情報、誤った情報、他者を傷つける発言まで、無条件に保存して共有すべきではありません。
それでも、生成AIやRAGによって、情報の価値判断は変わりつつあります。
過去の議事録、担当者のメモ、修正履歴、問い合わせの記録、採用されなかった提案などを横断して検索し、現在の問いと関係する情報を探せるようになってきました。
かつては整理できないノイズだった情報が、将来の問いに答えるための材料になり得ます。
しかし、AIが価値を見つけられる時代になっても、人間が先に「これは不要だ」と削除してしまえば、AIもその情報を見つけることはできません。
さらに、組織にとって都合の悪い情報を最初から記録しなければ、どれほど高性能なAIを導入しても、AIが参照するのは組織の表向きの記憶だけです。
反対意見が削除された議事録、失敗が書かれていない報告書、現場の違和感が取り除かれたデータ、経営層に都合のよい成功事例だけが登録されたナレッジベース。
そのような情報をAIに読ませれば、AIは組織の自己正当化を、さらに流暢な文章にして返してくるでしょう。
腐った記憶を学習させれば、AIは腐敗を治してはくれません。
腐敗の論理を、読みやすく要約してくれるだけです。
AIが組織の知性を高めるとは限りません。
組織が残してきた偏った記憶を、より説得力のある言葉で再生産する装置になる可能性もあります。
それでは、DXを本当に組織の防腐剤として使うには、どのような仕組みが必要なのでしょうか。
ここで、少し具体的な仮説を置いてみます。
例えば、稟議書や議事録に「決定事項」と「決定理由」だけを入力するのではなく、組織が通常は捨ててしまう情報を残すための領域を設けます。
最初に必要なのは、採用されなかった代替案を残す領域です。
どのような別案が存在し、なぜ今回は採用されなかったのかを短く記録します。却下された案は、間違った案とは限りません。予算、時期、制度、技術など、その時点の条件では採用できなかっただけかもしれません。
次に、担当者が感じた違和感を残す領域が必要です。
明確な根拠を示せなくても、「この数字には少し違和感がある」「利用者への説明で混乱が起きる可能性がある」といった懸念を記録できるようにします。
これは感想を意思決定の根拠にするためではありません。
後に問題が起きたとき、どの段階で兆候が現れていたのかを検証するためです。
さらに、最終的な結論とは異なる意見を残す領域も必要です。
誰が反対したのかを晒すためではなく、どのような観点が少数意見として存在したのかを保存します。発言者名を残す必要がなければ、匿名化しても構いません。
重要なのは、組織が全員一致だったという虚構を作らないことです。
また、判断時点の前提条件も残さなければなりません。
予算はいくらだったのか。どの法制度を前提にしていたのか。利用者数をどの程度と見込んでいたのか。どのような技術的制約があったのか。
過去の決定が現在も正しいかを検証するには、その決定が置かれていた条件を知る必要があります。
最後に、再検討の条件をあらかじめ記録します。
利用者数が一定水準を下回ったとき、制度が改正されたとき、運営費が一定額を超えたときなど、どの条件が変われば決定を開き直すのかを設定します。
決定を永久に固定するのではなく、未来から問い直せる状態にしておくのです。
私は、このような領域を仮に「ノイズ保存欄」と呼びたいと思います。
ただし、何でも入力項目にすればよいわけではありません。
すべてを必須入力にすれば、今度は記録すること自体が目的となり、デジタル化された無駄な仕事が増えます。
重要案件だけを対象にする、入力は短文にする、AIが会議記録から候補を抽出して人間が確認する、保存期間や閲覧権限を分けるといった工夫が必要です。
必要なのは、項目を増やすことではありません。
決定を固定するためのシステムから、決定を未来に問い直すためのシステムへ変えることです。
デジタル化とは、紙の様式を画面に移すことではありません。
組織が何を記憶し、何を忘れてきたのかを、設計し直すことなのです。
異論を残す仕組みを作っても、発言した人が組織内で不利益を受けるのであれば、誰も本音を書きません。
発言する人に必要なのは、勇気だけではありません。
「勇気を持って声を上げよう」という言葉は美しく聞こえますが、組織の権力をほとんど持たない個人へ、改善の責任と危険を押し付ける言葉にもなります。
声を上げた人が孤立し、評価を下げられ、仕事を外されるのであれば、黙ることは弱さではありません。
合理的な自己防衛です。
だからこそ、発言は個人の人格や覚悟だけに依存させてはいけません。
事実と推測を分けて記録すること、個人への批判ではなく仕組みの問題として示すこと、反対だけで終わらせず代替案を置くこと、口頭だけでなく後から検証できる形で残すことが必要です。
データや記録は、相手を殴るための武器ではありません。
発言した個人が、組織の圧力を一身に受けないための防具として使われるべきです。
正面から大きな声で権力にぶつかる必要はありません。
問いを残し、記録を残し、条件を示し、再検討の入口を残しておく。
その場では採用されなくても、未来の誰かが開ける形で残しておく。
折れずに曲がり、消えずに残る。
それは、組織へ服従することでも、組織を見捨てることでもありません。
発言と離脱の間に、記録という第三の防衛線を引くことです。
デジタル化は、組織の記憶を残しやすくします。
文書を検索できるようになります。意思決定の履歴を残せます。過去の議事録を横断して参照できます。個人が持っていた知識を、組織で共有することも可能になります。
その意味で、DXは組織の腐敗を抑える防腐剤になり得ます。
情報を特定の人から切り離し、意思決定の過程を残し、根拠となるデータを共有し、例外的な対応を可視化できます。
「誰が言ったのか」ではなく、「何を根拠に言ったのか」を問えるようになります。
「昔からそうしている」ではなく、「現在も必要なのか」を検証できるようになります。
しかし、何もかも記録すればよいわけではありません。
人の発言を常時記録し、行動を数値化し、失敗を永久に保存すれば、ナレッジ管理は監視装置へ変わります。
記録されることを恐れた人は、新しいことを試さなくなります。率直に話さなくなります。失敗を避け、安全な発言だけを選ぶようになります。
評価システムやKPIによって、組織がさらに強く人間を管理する可能性もあります。
数字によって公平になるように見えても、何を数字にするのかを決める人、数字の意味を解釈する人、例外を認める人に権力が集中すれば、以前より強固な支配が生まれます。
人間による曖昧な支配が、システムによる反論不能な支配へ変わるだけかもしれません。
DXは、異論を守ることもできます。
同時に、異論が生まれない組織を完成させることもできます。
問われるべきなのは、どれだけ多くの情報を保存するかだけではありません。
誰のために記録するのか。誰がその情報を閲覧できるのか。失敗した人が再び挑戦できるのか。異論を述べた人が不利益を受けないのか。記録された情報が、人を裁くためではなく、組織が学ぶために使われるのか。
技術の性能よりも先に、設計されるべきものがあります。
組織の問題を「人の問題」と呼ぶのは簡単です。
しかし、人は置かれた関係の中で振る舞いを変えます。
情報を隠した人だけを責めても、情報を隠すことで立場を守れる構造が残れば、次の誰かが同じことをします。
発言しなかった人を責めても、発言した人が損をする環境が残れば、沈黙は続きます。
学ばない人を責めても、正解以外をすべて失敗として扱う組織では、誰も探索しなくなります。
DXが変えるべきなのは、人間の意識だけではありません。
人間が嘘をつかず、黙らず、誰かを支配しなくても働ける関係そのものです。
ナレッジ管理とは、完成した正解を棚へ並べることではありません。
採用されなかった意見、失敗した試行、説明できなかった違和感、結論に至らなかった対話など、一般には「いらない」と言われる情報を、未来の誰かが問い直せる状態で残すことです。
人は資源ではありません。
知識もまた、現在の目的のためだけに消費される資源ではありません。
組織が本当に守るべきものは、効率よく働く人間だけではないはずです。
まだ役に立つかどうかも分からない問いを抱え、組織とは違う景色を見ている人間もまた、守られるべきです。
腐るのは、人なのでしょうか。
それとも、その人の声と記憶を捨て続けてきた組織なのでしょうか。
そして、組織が腐るとき、デジタル技術はそれを止めるのでしょうか。
それとも、腐敗を効率化し、検索可能にし、自動化するのでしょうか。
DXを始める前に、まず問わなければなりません。
私たちは、何を便利にしようとしているのでしょうか。
そして、その便利さのために、誰の声を不要なノイズとして消そうとしているのでしょうか。
REFERENCES
参考文献・関連資料