私についての話
FICTION
Look at me.
Leave me alone.
高瀬由紀の物語
「由紀って、ほんと毎日楽しそうだよね」
そう言われるのは、嫌いではなかった。
高瀬由紀は三十二歳になった春、会社の同僚から同じことを三度言われた。最初は週末に参加した読書会の話をしたとき。二度目は、連休に一人で金沢へ行くと話したとき。そして三度目は、営業部の後輩が結婚することになり、昼休みにその報告を受けたときだった。
「由紀さんは結婚しないんですか」
後輩は弁当の蓋を閉じながら尋ねた。
「どうだろうね。誰かいい人いたら紹介してよ」
「由紀さんだったら、すぐ見つかりそうですけどね」
「そう言ってくれるの、あなただけだよ」
そんなことはなかった。
由紀は年に何度か男性から食事に誘われていた。昨年も紹介された男性と三度ほど会ったし、読書会で知り合った男性からは、今度二人で出かけませんかと誘われている。
嫌な人ではなかった。話も合った。ただ、休日に会う約束をするとなると、先に入っている予定を動かさなければならなかった。由紀は再来週の土曜日を提案したが、相手から返事が来るまでの三日間に、別の約束を入れてしまっていた。
新卒で入社して九年目。昨年から小さなチームを任され、部下は三人。上司との関係も悪くなく、仕事そのものに不満はない。
週末には読書会や料理教室へ出かけ、旅行の予定も年に何度か入っている。大学時代の友人たちとは定期的に食事をし、職場の同僚とも月に一度くらいは飲みに行った。
一人で過ごす休日も好きだった。
朝寝坊をして、冷蔵庫にあるもので朝食を作り、洗濯を済ませてから近所の喫茶店へ行く。誰とも話さず本を読んでいるうちに夕方になっても、特に退屈することはなかった。
金曜日の夜、由紀は大学時代の友人たちとイタリア料理店にいた。
店の奥にある六人掛けのテーブルに五人が座り、中央には取り分け用のサラダと前菜が並んでいた。厨房からは焼いたチーズとオリーブオイルの匂いが漂い、ときどき奥の扉が開くたびに、熱い空気が客席へ流れてきた。
由紀は通路を行き来する店員の邪魔にならないよう、鞄を椅子の下へ押し込んだ。
「それでさ、部長が急にオンライン会議始めちゃって」
由紀が話し始めると、向かい側の美咲が笑った。
「また由紀の会社の話?」
「いや、今日は違うって。本当に面白かったんだから」
由紀は身振りを交えて続きを話した。
思ったところで笑いが起きた。
笑い声が落ち着くのを待ってから、由紀はもう一つだけ冗談を付け加えた。
また笑いが起きた。
由紀はグラスを持ち上げた。
楽しかった。
やがて話題は、美咲が続けている不妊治療のことに移った。
「来月から、また病院変えることにしたんだ」
美咲はグラスの水を飲んだ。
「今度のところ、仕事帰りでも通えるらしくて」
「そっか。大変だね。でも、今って結構いろんな方法あるみたいだよね。私、この前そういう記事読んだよ」
「うん。まあ、そうなんだけどね」
隣の友人が通院の時間をどう確保しているのか尋ねると、美咲は勤務先の制度について話し始めた。
由紀はそのあいだに大皿の料理を取り分け、空いた皿を重ねて店員に渡した。
美咲の皿には、苦手なオリーブが入らないようにしておいた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
大学時代から、美咲はオリーブが苦手だった。
一度だけ、間違えて口に入れてしまったことがある。あのときの美咲の顔が面白くて、由紀はしばらく笑い続けた。
その出来事は、よく覚えていた。
話が一段落したところで、由紀は自分の会社で新しく始まった育児支援制度を紹介した。
誰かが「へえ」と言った。
美咲は笑っていた。
食事の終わり頃、店員が焼きたてのピザを運んできた。
由紀は熱いうちに食べようと皆に声をかけ、皿に取り分けた一切れを持ち上げたが、伸びたチーズがなかなか切れず、隣の友人がフォークで手伝ってくれた。
「なんか昔もこんなことあったよね」
美咲が言った。
「何が?」
「大学の近くの店でさ。由紀、ピザ落としたじゃん」
「ああ、あったっけ」
「覚えてないの? 結構すごかったよ。服まで汚して」
「ええ、そんなことした?」
「したよ。あのあと、由紀ずっと黙ってたじゃん」
「私が?」
「うん。珍しくね」
友人たちはその話を少し続けたが、由紀にはどうしても思い出せなかった。
大学の近くにあったイタリア料理店なら覚えている。
地下へ降りる階段が狭くて、夏場は店内が妙に蒸し暑かった。入口に置かれた小さな植木鉢も覚えている。
ただ、ピザを落とした記憶はなかった。
自分が黙っていたというのも、どうにも想像できなかった。
「そんな日もあったんだねえ」
由紀が言うと、美咲は笑った。
「そりゃあるでしょ」
由紀も笑った。
ピザをもう一口食べた。
熱かった。
帰り際、由紀は人数分の金額を手早く計算し、端数は自分が多く払うことにした。
「いつもありがとうね」
美咲が言った。
「こういうの得意だからさ」
店の外に出ると、昼間の雨で濡れた舗道が街灯の光を映していた。
美咲は駅で別れ、由紀は同じ方向に帰る友人と少し歩いた。
「由紀って、昔から変わらないよね」
「そう?」
「いつも元気で、何でも楽しそう」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
二人は交差点で別れた。
帰りの電車で、由紀は今日撮った写真を見返した。
料理の写真が三枚、全員で撮った写真が二枚。
集合写真では、美咲が端に座り、由紀はその隣で大きく笑っていた。
一枚目は少し暗かったので、二枚目を選んだ。
明るさを調整し、全員の顔がよく見えるようにしてから、大学時代のグループチャットに送った。
「今日はありがとう! また集まろうね」
すぐに二人から返事が来た。
「楽しかったー!」
「また飲もう!」
少しして美咲からも返事が来た。
「今日はありがとう。またね」
由紀は画面を閉じ、電車の窓を見た。
暗いガラスに、自分の顔が映っていた。
駅の階段を上がると、濡れたアスファルトの匂いがした。
小学校の遠足で雨に降られたことがあった。
誰かと一緒に走った気がした。
傘は持っていなかった。
誰かが自分の名前を呼んでいた。
それ以上のことは思い出せなかった。
由紀は駅前のコンビニに立ち寄り、翌朝のパンと牛乳を買って帰った。
美咲から結婚の報告があったのは、それから四か月後の夏だった。
由紀がメッセージを読んだのは、仕事帰りのバスの中だった。
「ちょっと驚かないで聞いてね」
続く文章には、妊娠したこと、付き合っていた男性と入籍すること、秋には引っ越す予定であることが書かれていた。
最後に小さなハートの絵文字がついていた。
由紀は思わず声を出しそうになり、口元を押さえた。
もう一度文章を読み返すと、いつもより二つ手前の停留所で降りた。
バスが走り去るのを待ってから歩道の端に寄り、美咲に電話をかけた。
三度目の呼び出しでつながった。
「ええっ! おめでとう!」
思ったより大きな声が出た。
通りかかった女性が一瞬こちらを見たので、由紀は小さく頭を下げ、声を落とした。
「すごいじゃん。本当におめでとう」
「急だったから、自分でもまだ実感ないんだよね」
「でも、よかったじゃん。あんなに頑張ってたんだから」
美咲は少し黙った。
「うん。ありがとう」
由紀は出産予定日や新居のことを尋ね、必要なことがあれば手伝うと言った。
電話を切ったあと、由紀は近くの花屋の前で立ち止まった。
水を撒いたばかりの店先には、濡れた葉や土の匂いが漂っていた。
何か贈ろうかな。
しばらく眺めていたが、美咲には引っ越しも控えている。
花束は別の機会にして、落ち着いた頃に何か贈ることにした。
大学生の頃、二人でよく通った洋菓子店があった。
駅から少し離れた路地にあり、店内にはいつもバターと砂糖の甘い匂いが漂っていた。
ショーケースの端には小さなクッキーが並び、美咲はいつも同じものを買っていた。
店の名前は覚えていた。
検索すると、三年前に閉店していた。
由紀は画面を閉じた。
秋になると、美咲は以前ほど食事会に来なくなった。
体調が優れない日が多く、週末は新居の準備で忙しいらしかった。
由紀は無理に誘わなかった。
代わりに、別の友人を誘うようになった。
料理教室で知り合った女性と映画へ行き、読書会の仲間と温泉へ出かけた。
以前から興味のあった陶芸教室にも申し込み、日曜日の午前中に二時間ほど土を触るようになった。
陶芸教室は古い建物の一階にあり、入口の引き戸を開けると湿った土と木材の匂いがした。
作業台には乾いた粘土の粉が薄く残り、棚にはまだ焼かれていない作品が並んでいる。
由紀はエプロンをつけ、講師から渡された粘土の塊を両手で押した。
冷たかった。
思っていたよりも重く、指を押し込むと形が変わった。
「力を入れすぎなくて大丈夫ですよ」
講師が言った。
「こういうの、つい頑張っちゃうんですよね」
由紀が笑うと、隣の女性も笑った。
小鉢を作ることにした。
縁の高さをそろえようと何度も指で押しているうちに、片側だけ薄くなってしまった。
講師に手伝ってもらい、なんとか形を整えたものの、出来上がった小鉢は少し傾いていた。
「でも、これはこれで味がありますよ」
「そういうことにしておきます」
由紀は笑った。
作業を終える頃には、爪の間まで土が入り込んでいた。
洗面台で手を洗っても、しばらく指先には湿った土の匂いが残っていた。
小学校の校庭を思い出した。
雨上がりの校庭。
水たまりの縁を、誰かと歩いている。
「由紀さん、よかったらお昼一緒にどうですか」
隣で作業していた女性が声をかけた。
「いいですね。行きましょう」
店は混んでいたが、窓際の席が一つ空いていた。
由紀は相手に窓側を勧め、自分は通路側に座った。
女性は最近転職したばかりで、職場の人間関係にまだ慣れていないと話した。
由紀は、自分が入社して数年目に部署を異動したときの話をした。
知らない仕事ばかりで苦労したこともあったし、新しい上司に助けられたこともあった。
女性は何度も笑った。
食後にコーヒーを飲みながら、二人は次の教室の話をした。
「由紀さんって、初めて会った人とでもすぐ仲良くなれそうですよね」
「そう見える?」
「はい。私、人見知りするから羨ましいです」
「私も、昔は人見知りだった気がするんだけどね」
「ええ、そうなんですか?」
「たぶんね。あんまり覚えてないけど」
二人は笑った。
帰り際、連絡先を交換した。
「また一緒に行きましょうね」
「ぜひぜひ」
その夜、由紀は自分で作った少し歪んだ小鉢と、昼食に食べたパスタの写真をSNSに載せた。
「新しい趣味、始めました」
大学時代の友人が「由紀らしいね」とコメントした。
由紀は笑顔の絵文字を返した。
十一月のある日、美咲からメッセージが届いた。
「ごめんね。今月の食事会、やっぱり行けそうにない」
「全然大丈夫だよ! 体を大事にしてね」
由紀はすぐに返信し、もう一通送った。
「落ち着いたら二人でゆっくりご飯行こうね」
美咲からは、手を合わせた絵文字が一つ返ってきた。
由紀はしばらく画面を眺めていたが、ちょうどキッチンで電子レンジが鳴ったのでスマートフォンを置き、温めていた夕食を取り出した。
スーパーで買ったグラタンは容器の端だけが熱く、中央はまだ少し冷たかった。
もう一度温めようかと思ったが、面倒になってそのまま食べ始めた。
テレビでは旅番組が流れていた。
知らない町の食堂で、出演者が大きな丼を前に笑っていた。
おいしそうだった。
由紀は次の旅行で、その町にも行ってみたいと思った。
食事を終え、容器を片づけてから翌週の予定を確認した。
土曜日は読書会、日曜日は料理教室。
そういえば、以前そこで知り合った女性から、新しくできたカフェへ行こうと誘われていた。
由紀は再来週の日曜日なら空いていると返信した。
すぐに返事が来た。
「やった! 楽しみにしてるね」
由紀も笑顔の絵文字を返した。
よかった。
年が明け、美咲は大学時代のグループチャットにもほとんど顔を出さなくなった。
代わりに別の友人が新年会を企画し、由紀は店探しを任された。
駅から近く、個室があり、料理の評判も悪くない店を三つ探して、候補を送った。
「さすが由紀」
「助かる!」
新年会には八人が集まった。
久しぶりに会う友人もいて、話は尽きなかった。
子どもの話、仕事の話、住宅ローンの話、旅行の話。
誰かが子どもの写真を見せると、由紀も一緒に覗き込んだ。
「大きくなったねえ」
「もう小学生だよ」
「えっ、早くない?」
みんなが笑った。
食事の途中で、大学時代の友人が由紀に言った。
「そういえば、由紀って昔、小学校の先生になりたかったよね」
「え、そうだっけ?」
「言ってたよ。大学入ったばっかりの頃」
「全然覚えてない」
「結構本気だったと思うけど」
「そうなんだ。なんか意外」
由紀が笑うと、友人も笑った。
「今の由紀からは想像できないね」
「だよねえ」
由紀は皿に残っていた料理を一口食べた。
小学校の先生。
どうしてなりたかったのだろう。
子どもが好きだったのか。
誰かに憧れていたのか。
少し考えたが、隣の友人から旅行先のことで質問されたので、そちらに答えた。
話はそこで終わった。
帰りの電車で、由紀は参加者全員に写真を送った。
そのあと、美咲との個別チャットを開いた。
最後にやり取りしたのは一週間前だった。
新居に届いた家具の写真が送られてきていて、由紀は「いい感じだね!」と返していた。
少し考えて、今日の集合写真を送った。
「今日はこんな感じだったよー。また落ち着いたらみんなで集まろうね」
既読がついたのは翌朝だった。
「楽しそう! みんなによろしくね」
由紀は笑顔の絵文字を返した。
その日の午後、陶芸教室で知り合った女性から食事の誘いが来た。
由紀はすぐに予定を確認した。
由紀がAIを使い始めたのは三十歳になった頃だった。
最初は仕事の資料作成や旅行先の調べ物が中心だった。議事録の整理にも、出張先で短時間に立ち寄れる観光地を探すのにも便利だったし、仕事で使う文章の言い回しを相談することもあった。
やがて、読んだ本の感想を書いてみたり、仕事で気になった出来事を話すようになった。
AIはいつも丁寧に返事をした。
以前話したことを踏まえて、別の角度から考えを示してくれることもあった。
由紀はそれが面白かった。
冬のある夜、由紀は久しぶりにAIへ私生活の話をした。
「昔から仲のいい友達が結婚して、春には子どもも生まれるんだけど、最近あまり会えなくなったんだよね」
AIは、生活環境が変わると友人関係も変化することがあると説明し、相手を尊重しながら無理のない距離で関係を続けることを提案した。
由紀は画面を読み、少し考えてから別の質問をした。
「私って、どういう人間だと思う?」
AIは、それまでの会話から見える特徴をいくつか挙げた。
好奇心が強く、人との交流を楽しみ、自分の経験を他者と共有することに喜びを感じている。新しいことにも積極的に取り組む一方で、周囲の反応を気にしすぎたり、予定を増やすことで疲れてしまったりする可能性がある。
「結構、いい人じゃん」
由紀は笑った。
その翌週、仕事で後輩と少し気まずくなることがあった。
由紀が頼んだ資料の修正が終わっておらず、朝の会議で確認すると、後輩は昨日のうちに別の仕事を任されていたと答えた。
「だったら一言言ってくれればよかったのに」
由紀はそう言い、別の同僚に修正を頼んだ。
昼休みになってから、後輩が少し離れた席で食事をしているのを見かけた。
由紀は午後の会議を終えたあと、AIに出来事を説明した。
AIは、双方の認識に食い違いがあった可能性を挙げ、業務の優先順位を共有する方法を提案した。
翌日、由紀は後輩に声をかけた。
「昨日はごめんね。次から、ほかの仕事が入ったら先に教えて」
後輩は少し驚いた顔をしたあと、「わかりました」と答えた。
それから何日かして、後輩の方から仕事の相談を受けることがあった。
由紀は会議室の空き時間を確認し、二人で資料を見直した。
「ここは私の説明が足りなかったね」
そう言うと、後輩は少し笑った。
「いえ、私もちゃんと確認すればよかったです」
話し合いは十五分ほどで終わった。
由紀は次の会議へ向かった。
その日は午後から別の案件が重なり、帰宅した頃には少し疲れていた。
冷蔵庫から昨日の残りのスープを取り出し、鍋で温めた。
塩を足そうか迷ったが、そのまま器に注いだ。
食べてみると、ちょうどよかった。
二月の終わり頃、実家の母親から小包が届いた。
中には頼んでいた冬物のコートと、古い写真が数枚入っていた。
「押し入れ片づけてたら出てきたから、ついでに入れといたよ」
母親からのメッセージには、そう書かれていた。
写真は薄い封筒に入れられていた。
由紀はコートをハンガーに掛け、封筒を開いた。
小学校の遠足や運動会の写真が数枚あり、どれも少し色あせていた。
そのうちの一枚は、小学校四年生の遠足だった。
黄色い帽子をかぶった由紀が、同級生たちと並んでいた。
口を閉じ、正面を向いている。
隣には赤いリュックサックを背負った女の子が写っていた。
名前は思い出せなかった。
由紀は写真をテーブルに並べ、スマートフォンで一枚ずつ撮影した。
いつでも見返せるようにしておこうと思った。
一枚目は光が反射していたので、窓際へ移動して撮り直した。
画像を確認し、赤いリュックサックの女の子を拡大したが、顔は少しぼやけていた。
封筒からは、古い紙と押し入れの木材が混ざったような匂いがした。
雨の日の教室を思い出した。
廊下には濡れた傘が並び、手すりには雑巾が掛けられていた。
黒板の前には濡れた足跡が残っている。
誰かが自分の名前を呼んでいた。
振り返った気がした。
けれど、そのあと何があったのかは思い出せなかった。
由紀は写真を封筒に戻した。
翌日、母親に写真のお礼を送った。
「懐かしい写真ありがとう。遠足の写真、隣に写ってる子って誰だっけ?」
母親からは夕方に返事が来た。
「お母さんもわからないなあ。懐かしいね」
由紀は笑っている絵文字を返した。
その晩、AIに写真のことを話した。
「小学生の頃の私って、今と全然違う気がするんだけど、こういうことって普通?」
AIは成長に伴う性格や価値観の変化について説明した。
由紀はしばらく画面を眺め、それから小学校の頃に覚えている出来事をいくつか入力した。
運動会で転んだこと。
先生に褒められたこと。
給食が嫌いだったこと。
昼休みに友達とよく遊んでいたこと。
「私、昔から人を笑わせるのが好きだったんだと思う」
AIは、それまでの会話にも人との交流を楽しむ傾向が表れていると返した。
由紀はその文章を読み返した。
そうかもしれない。
ただ、小学校の先生になりたかったという話は、まだよく思い出せなかった。
由紀は手帳を開いた。
少し前のページには、読んだ本の一節が書いてあった。
その次には、友人が食事の席で言った冗談が書いてあった。
最近はAIとの会話で気に入った言葉も書き留めている。
どれも、あとで読み返すと面白かった。
ある日の読書会で、人間関係の距離感について話題になった。
参加者の一人が、一人でいるのは好きだけれど、ずっと一人でいたいわけではないと話した。
「わかるなあ」
由紀は言った。
「私も、一人の時間は結構好きなんだよね。でも、こうやってみんなで話すのも好きだし」
隣の女性が笑った。
「由紀さん、いつも人と会ってるイメージだから意外」
「そう? 家にいる日は、結構ずっと一人だよ」
「何してるの?」
「本読んだり、料理したり。あとは、何もしなかったり」
「何もしない日、あるんだ」
「あるよ。失礼だなあ」
みんなが笑った。
会が終わったあと、一人の男性が声をかけてきた。
「さっきの話、よかったですね」
「本当ですか?」
「ええ。由紀さんって、自分の考えをちゃんと持ってますよね」
「そんなことないですよ」
由紀は笑った。
「結構、人に影響されやすいんです」
「そうなんですか?」
「そうですよ。本とか、友達とか、いろんな人に」
「でも、それも含めて由紀さんの考えなんじゃないですか」
「そうかもしれないですね」
二人は駅まで一緒に歩いた。
帰宅後、由紀は次の読書会で紹介する本を机に置いた。
まだ半分ほどしか読めていなかった。
目次を写真に撮り、どのような観点から紹介できるかAIに尋ねた。
いくつかの案が示された。
由紀はその中の一つが気に入り、手帳に書き留めた。
読みかけの本は、机の端に置いたままだった。
春になり、美咲に女の子が生まれた。
由紀はすぐにお祝いのメッセージを送った。
小さな赤ん坊が白いタオルに包まれている写真が届き、「かわいい!」と返して出産祝いを贈った。
それからしばらく、美咲との連絡は途切れた。
その間も由紀の生活は忙しかった。
仕事では新しい企画を任され、読書会では司会を頼まれた。
料理教室で知り合った男性とは何度か食事に行ったが、三度目の帰り道で、次の約束をする気にはなれなかった。
帰り際、男性は次に行きたい店の話をしていた。
由紀も行ってみたいと思った。
ただ、誰と行くかまでは考えていなかった。
その日の夜、由紀は一人で夕食を食べた。
料理教室で習ったパスタを作ってみたが、塩を少し入れすぎたらしく、思っていた味にはならなかった。
それでも、食べられないほどではなかった。
食事を終え、皿を洗い、テーブルを拭いた。
明日の予定は何も入っていなかった。
由紀はスマートフォンを手に取った。
読書会のグループチャットには新しいメッセージが届いていた。
料理教室の仲間からも写真が送られてきていた。
誰かに返事をしようかと思ったが、特に急ぐ内容ではなかった。
しばらく画面を眺めてから、AIを開いた。
「私って、結局一人が好きなのかな」
AIは、一人の時間を好むことと、親密な関係を望むことは矛盾しないと返した。
由紀はその言葉を気に入った。
手帳を開いた。
以前書いた言葉が、いくつも並んでいた。
その中に、覚えのない一文があった。
「誰かと一緒にいることと、誰かにわかってもらうことは同じではない」
由紀はしばらくそれを読んだ。
自分で考えたのか、本で読んだのか、誰かが言ったのか。
思い出せなかった。
悪くない言葉だと思った。
由紀は手帳を閉じた。
翌朝、いつもより遅く目が覚めた。
窓から日が差していた。
由紀は台所へ行き、昨日買っておいたパンを焼いた。
バターを塗り、コーヒーを淹れた。
一口食べると、思っていたよりおいしかった。
今日は何をしようかな。
由紀はスマートフォンを開き、近くで開催されているイベントを調べ始めた。
美咲の家を訪れたのは、子どもが生まれて半年ほどたった秋だった。
由紀は駅前の洋菓子店で焼き菓子を買い、指定された時間にインターホンを押した。
玄関に現れた美咲は、以前より少し痩せていた。
「久しぶり」
「久しぶり! 元気だった?」
「まあ、ぼちぼちかな」
部屋には洗濯物が干され、床には赤ちゃん用のマットが敷かれていた。
小さな玩具がいくつか転がり、テーブルの下には折りたたまれたタオルが積んであった。
由紀は靴をそろえ、持ってきた紙袋を美咲に渡した。
「これ、よかったら食べて」
「ありがとう。わざわざごめんね」
「全然。私も食べたかったから、二つ買っちゃった」
美咲は笑った。
部屋の奥から小さな声が聞こえ、美咲が赤ちゃんを抱いて戻ってきた。
「ほら、由紀おばちゃんだよ」
「おばちゃんって、ちょっと」
由紀は笑いながら赤ちゃんの顔を覗き込んだ。
赤ちゃんは由紀をじっと見ていた。
「かわいいねえ」
差し出した指を赤ちゃんが握った。
思っていたより力が強かった。
「すごい。こんなに小さいのに」
「結構、力あるんだよ」
由紀は抱っこさせてもらい、腕の中で赤ちゃんが動くと、慌てて抱き直した。
「えっ、これで合ってる?」
「大丈夫大丈夫」
赤ちゃんの服からは、洗剤とミルクが混ざったような匂いがした。
由紀は赤ちゃんの顔を見て、変な顔をしてみせた。
赤ちゃんは泣いた。
「ごめんごめん」
二人で笑った。
美咲が赤ちゃんを寝かせに行っている間、由紀はソファに座って待った。
テーブルには飲みかけの麦茶と、小さな布の絵本が置かれていた。
絵本の端は少し湿っている。
壁には家族写真が飾られていた。
美咲と夫が赤ちゃんを抱いていた。
三人とも笑っていた。
しばらくして、美咲がお茶を持って戻ってきた。
「ごめんね。ちょっと寝かせてた」
「全然。大変だね」
「まあ、慣れたけどね」
美咲は持ってきた焼き菓子を皿に並べた。
由紀は一つ手に取った。
サクサクした生地の中に、バターの香りが広がった。
「おいしいね」
「うん。久しぶりにこういうの食べた」
「前によく行ってたお菓子屋さん、覚えてる?」
「大学の近くの?」
「そうそう。あそこ、閉店してたんだね」
「そうなんだ。知らなかった」
「あそこのクッキー、おいしかったよね」
「うん。帰りによく寄ってたね」
「そうそう」
美咲は笑った。
「なんか懐かしいね」
由紀も笑った。
それから最近の仕事の話をした。
新しい企画が採用されたこと。
上司に褒められたこと。
読書会で司会をしたこと。
今度、友人たちと旅行へ行くこと。
美咲は「すごいね」「楽しそう」と言いながら聞いていた。
途中で赤ちゃんが泣くと、美咲は立ち上がった。
由紀はそのあいだ、スマートフォンで今日撮った赤ちゃんの写真を見返した。
少し手ぶれしていた。
美咲が戻ってくると、画面を見せた。
「これ、かわいく撮れたと思ったんだけど、ちょっとぶれちゃった」
「ほんとだ。でもかわいいね」
「あとで送るね」
美咲はうなずいた。
少しして、口を開いた。
「寝不足でさ」
「うん」
「最近、何回起きてるのかわかんないくらい」
「大変だね。旦那さんは手伝ってくれるの?」
「うん、やってくれるんだけど、仕事もあるから」
美咲は少し黙った。
「それに私も、仕事どうしようかなって」
「復帰するんでしょ?」
「うん。そのつもりだったんだけど」
美咲はお茶を飲んだ。
「なんか、考えてたのと違うことも多くて」
「そうだよね。制度があっても、現実は難しいよね」
由紀は、会社で新しく始まった育児支援制度について話した。
美咲はうなずいていた。
「でも、美咲の会社って結構そういうの進んでるんじゃなかった?」
「うん。そうなんだけどね」
美咲はグラスを置いた。
奥の部屋から赤ちゃんの声が聞こえた。
「ちょっと見てくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
美咲が戻ってきたとき、由紀は旅行先の写真を見ていた。
「そうだ、美咲にも見せようと思ってたんだ」
画面を差し出した。
「今度、友達とここ行くんだよね」
「いいね。きれい」
由紀はホテルの予約がなかなか取れなかったことや、旅行先で食べたい料理の話をした。
美咲は何度も笑った。
「由紀はいいなあ」
「何が?」
「いろんなことしてて。楽しそうで」
「美咲だって、赤ちゃんかわいいし、いい家だし」
由紀はリビングを見回した。
「旦那さんも優しそうだし。羨ましいなあ」
美咲は少し笑った。
「うん。ありがたいとは思ってる」
「そうだよ。大変なこともあるだろうけどさ」
「うん」
美咲は、皿に残っていた焼き菓子を半分に割った。
少し食べて、残りを皿に置いた。
それから二人は大学時代の話をした。
美咲が、昔よく行っていたイタリア料理店の名前を出した。
「あの地下のお店、覚えてる?」
「覚えてるよ。狭かったよね」
「あそこも、もうないんだって」
「そうなんだ。残念」
「由紀、あそこで一回泣いたことあったよね」
「え?」
「ほら、ピザ落としたとき」
「またその話?」
由紀は笑った。
「そんなにひどかった?」
「いや、ピザのことじゃなくて」
美咲は少し考えた。
「まあ、いいや。昔の話だし」
「何それ。気になるじゃん」
「別に大したことじゃないよ」
美咲は笑った。
由紀は何か言い返そうとしたが、奥の部屋から赤ちゃんの声が聞こえた。
「ちょっと見てくるね」
「うん」
美咲が席を立ったあと、由紀はテーブルの上を見た。
焼き菓子が二つ残っていた。
由紀は自分の分を食べ終え、お茶を飲んだ。
窓の外では、向かいの建物のベランダに洗濯物が揺れていた。
風が強くなってきたらしい。
美咲が戻ってくると、赤ちゃんはその腕の中で眠っていた。
「寝た?」
「うん。やっと」
美咲は声を落として笑った。
由紀も小さく笑った。
しばらく二人は、眠っている赤ちゃんを眺めていた。
赤ちゃんの指が、時々わずかに動いた。
「ほんとに小さいねえ」
由紀が言った。
「ね。毎日見てると、あんまりわかんないけど」
美咲は赤ちゃんの頬にかかった布を直した。
「生まれたときの写真見ると、もう全然違うんだよ」
「そうなんだ」
「うん」
由紀はもう一度、赤ちゃんの顔を見た。
しばらくして、時計を確認した。
「そろそろ帰るね。長居してごめん」
「全然。来てくれてありがとう」
玄関で靴を履きながら、由紀は言った。
「落ち着いたら、また二人で旅行行こうね」
美咲は少し笑った。
「うん、いつかね」
由紀は靴のかかとを直した。
「じゃあ、またね」
「うん。気をつけて」
ドアが閉まった。
帰りの電車で、由紀はスマートフォンの写真を見返した。
赤ちゃんの写真が六枚。
家族写真が一枚。
美咲と二人で撮った写真はなかった。
由紀は撮り忘れたことに気づき、次に会ったときは撮ろうと思った。
それからAIを開いた。
「昔から一番仲のいい友達に会ったんだけど、なんか距離を感じちゃった」
AIは出産や育児による生活の変化について説明し、関係が変化することと友情が失われることは同じではないと伝えた。
「そうだよね。私たち、昔からずっと仲いいもんね」
AIは、長く続いてきた関係には積み重ねがあると返した。
由紀は画面を閉じた。
窓の外では、夕暮れの街がゆっくりと後ろへ流れていた。
その夜、美咲からメッセージが届いた。
「今日はありがとう。お菓子もおいしかったよ」
由紀は「また遊びに行くね」と返した。
少しして、もう一通届いた。
「あとね、今日ちょっと話したかったことがあったんだけど、うまく話せなかった」
由紀は返信欄を開いた。
「どうしたの?」
返事はしばらく来なかった。
由紀はシャワーを浴び、髪を乾かした。
洗面台に落ちた髪を集めて捨て、明日の読書会に持っていく本を鞄に入れた。
寝る前にスマートフォンを見ると、美咲から続きのメッセージが届いていた。
「なんか今日、ちゃんと話そうと思ってたんだけど、久しぶりだったから普通に楽しくなっちゃって。帰ってから、あれも話してないなって思った」
「仕事ね、戻るつもりでいたんだけど、最近ちょっと自信なくなってきた。保育園のこともあるし、復帰したら今みたいにはいかないだろうし。でも辞めたいわけでもないんだよね」
「夫もいろいろやってくれてるよ。そこは本当にありがたいんだけど、たまに誰にも話しかけられずに一人でいたいなって思うことがあって。子どもはかわいいのにね。変だよね」
「由紀と大学のときみたいにご飯行きたいなって思うんだけど、今みんなに会って、何話せばいいんだろうって考えちゃうこともある」
少し間を置いて、最後の一通が届いていた。
「由紀はいつも楽しそうで、ちょっと羨ましかったんだ。ごめん、長くなっちゃった。また今度会ったときでもいいから、話聞いてね」
由紀は文章を読み返した。
「大変だったんだね」
そう書きかけて消した。
「話してくれてありがとう」
それも消した。
何度か言葉を選んだが、どうもしっくりこなかった。
しばらくしてAIを開き、美咲から届いた文章を貼り付けた。
何と返せばいいか尋ねると、いくつかの返信案が示された。
どれも丁寧で、相手の気持ちを受け止め、無理に解決しようとせず、話を聞く姿勢を伝える文章だった。
由紀はその中の一つを選び、少し言葉を直して送った。
美咲からはすぐに返事が来た。
「ありがとう。由紀に話せてよかった」
しばらくして、赤ちゃんの写真が届いた。
今日、由紀が帰ったあとに撮ったらしい。
白いタオルの上で眠っている。
「かわいいね」
美咲から笑顔の絵文字が返ってきた。
由紀はスマートフォンを置き、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
グラスに注いで一口飲み、もう一度スマートフォンを手に取った。
AIとの会話が開いたままになっていた。
先ほどの返信案の上には、美咲についての相談が並んでいる。
由紀は少し上へスクロールした。
読書会の話。
仕事の相談。
小学校時代の記憶。
画面には、以前AIが整理した文章が残っていた。
人との交流を楽しむこと。
誰かを楽しませることに喜びを感じていること。
一人の時間を大切にしながら、親密な関係も望んでいること。
由紀はしばらく読んでいた。
そうだった。
たぶん。
スマートフォンの写真フォルダを開いた。
母親から届いた遠足の写真を撮影して保存した画像が、そこにあった。
黄色い帽子をかぶった自分。
隣にいる、赤いリュックサックの女の子。
由紀は画像を拡大した。
女の子は由紀の方を見ていた。
由紀は正面を向いていた。
女の子の口元は、少し笑っているようにも見えた。
さらに拡大すると、画像が粗くなった。
由紀は元の大きさに戻した。
写真の中の自分は、笑っていなかった。
何かを考えているようにも見えたし、ただ退屈しているようにも見えた。
あの子の名前は――。
由紀は写真を閉じた。
しばらくして、美咲とのチャットを開いた。
「由紀に話せてよかった」
最後のメッセージが残っていた。
由紀は、大学時代のイタリア料理店を思い出した。
蒸し暑い地下の店。
小さな植木鉢。
落としたというピザ。
あのとき美咲は、何を話そうとしていたのだろう。
由紀は思い出そうとした。
けれども、何も出てこなかった。
美咲に尋ねようかと思った。
夜も遅かった。
また今度でいい。
グループチャットには、新しいメッセージが届いていた。
来月の食事会についての相談だった。
誰かが由紀に店選びを頼んでいた。
「由紀ならいいところ知ってそう!」
由紀は少し笑った。
いつものことだった。
予定を確認すると、その週の土曜日は空いていた。
「お店、探しておくね!」
すぐに二人から返事が来た。
「助かる!」
「さすが由紀!」
由紀はスマートフォンを置いた。
窓の外では、雨が降り始めていた。
換気のために少し開けていた窓から、湿った空気が入ってきた。
由紀は窓を閉めた。
机の上には、明日の読書会で紹介する本が置かれていた。
何となく手に取ったが、すぐに元の場所へ戻した。
小学校の遠足でも、雨が降っていた。
誰かが自分の名前を呼んでいた。
あの子だったのだろうか。
由紀は思い出そうとしたが、何も出てこなかった。
ただ、雨に濡れた靴の中の、気持ちの悪い感触だけは覚えていた。
しばらくして、由紀はもう一度スマートフォンを手に取った。
AIとの会話を開いた。
自分についての説明が残っていた。
友人との関係についての説明もあった。
どれも、間違っているとは思わなかった。
由紀は入力欄を開いた。
しばらく、そのまま座っていた。
窓の外では、雨が降っていた。
それから、短い文章を入力した。
Leave me alone.
画面の明かりが、由紀の指先を照らしていた。
しばらくして、由紀はスマートフォンを伏せた。
部屋の明かりを消した。
明日は土曜日だった。
午後には読書会がある。
先月読んだ本について、何を話すかはもう決めていた。
――終――