私が忘れた昨日を、誰かは生きている。

忘れた時間、残る記憶

――人間という情報の集合体について

一人で息子を育ててきたと信じる父親と、その記憶からこぼれ落ちた時間を生きる息子。職場のAI、亡き妻の声、家族を支える祖母の存在を通じて、同じ人間についての記憶が、なぜこれほど異なるのかを描きます。情報と記憶をめぐる問いに、日常のすれ違いから応える物語です。

物語の目次|全12節
01

午前六時四十分

佐伯修一が目を覚ましたのは、枕元に置いたスマートフォンのアラームが鳴る三分前だった。

五十歳を過ぎてからというもの、夜中に何度か目が覚めるようになり、朝も必要以上に早く起きることが増えたが、本人はそれを年齢相応の変化だと考えており、眠れないことについて深刻に悩んだことはなかった。

十一月も半ばを過ぎた地方都市の朝は冷え込みが厳しく、寝室の窓には薄く結露が生じていた。

カーテンを開けると、まだ明けきらない空の下に、隣家の屋根がぼんやりと浮かんでいた。

洗面台で顔を洗い、鏡を見る。

白髪が増えた。

妻の美紀が生きていた頃は、週末になると決まって髪を染めるよう勧められたものだったが、佐伯は面倒だと言って断り続けていた。

今となっては、そうしたやり取りの細部をうまく思い出せない。

美紀はどんな言い方をしていたのだろう。

呆れたように笑っていた気もするし、もう少し真剣に心配していたような気もする。

そのどちらでも、今さら大した違いはない。

美紀が亡くなって、六年になる。

当時小学二年生だった息子の悠斗も、今では中学二年生になった。

佐伯は、男手一つでここまで育ててきたことについて、それなりの自負を持っていた。

仕事を辞めず、生活を破綻させず、息子を学校に通わせ、必要なものを買い与え、食事を用意する。

母親の代わりにはなれないにしても、父親としての責任は果たしてきたつもりだった。

台所に下りると、電気ケトルに水を入れ、冷蔵庫から卵を取り出した。

作り置きの煮物がタッパーに入っていたので、それを小鉢に移して電子レンジで温める。

水曜日には義母の澄江が夕食を作りに来るため、木曜日の朝はいつも食卓が少し豊かになる。

佐伯は煮物を一口食べて、ありがたいことだと思った。

七時を少し過ぎた頃、悠斗が二階から下りてきた。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

「今日、帰り遅い?」

「たぶんな。月末の資料があるから」

「そっか」

「夕飯は冷蔵庫にあるからな」

「うん」

悠斗は椅子に座り、食パンを手に取った。

十四歳ともなれば、父親と積極的に話すことも少なくなるのだろう。

佐伯自身、中学生だった頃に父親と何を話していたか、ほとんど覚えていない。

息子が無口になったことについても、成長の過程なのだと理解していた。

時計を見ると、出勤まであと二十分ほどあった。

佐伯はコーヒーを飲みながら、今日の会議のことを考え始めた。

向かい側では、悠斗が黙って食事を続けていた。

二人分の食器が並ぶ食卓は、もう六年も変わっていなかった。

佐伯は、そのことに安心していた。

02

立派な父親

東央物流株式会社は、従業員四百人ほどを抱える地方の中堅物流企業で、佐伯は総務部の課長補佐として、勤怠管理や労務関係の調整、社内制度の見直し、各部署から持ち込まれる雑多な問題の処理を担当していた。

大きな成果を挙げるわけではないが、大きな失敗もしない。

そうした人間は、組織にとって案外貴重である。

佐伯は上司から信頼され、若手社員からも相談を受けることが多かった。

判断が早く、感情的になることも少なく、面倒な案件でも嫌な顔をせずに引き受ける。

妻を亡くしてからも勤務態度は変わらず、子育てを理由に業務を断ることもほとんどなかった。

社内では、立派な父親として知られていた。

数年前、会社が企画した人材育成研修で、佐伯は仕事と家庭の両立について話したことがあった。

「確かに大変なこともありましたが、実際にそういう立場になれば、やるしかありませんからね。仕事も子育ても、結局は自分で責任を持つことが大切なんだと思います」

会場からは拍手が起こり、その様子は社内報にも掲載された。

佐伯自身、立派なことを言ったつもりはなかった。

ただ、実際にそうやって六年間を過ごしてきたのだから、嘘を話したわけでもなかった。

もっとも、そこには佐伯の記憶から抜け落ちている出来事もあった。

美紀が亡くなった直後、当時の上司が勤務時間を調整し、学童の迎えに間に合うよう配慮してくれたこと。

同僚たちが、佐伯に知らせないまま出張や休日出勤の予定を変更していたこと。

澄江が毎週食事を作り、学校行事に出席し、悠斗が熱を出した際には病院へ連れて行っていたこと。

そうした出来事を佐伯がまったく知らなかったわけではない。

その都度礼を言ったこともあったし、申し訳なく思ったこともあった。

しかし、六年という時間の中で、それらは少しずつ記憶の背景へと退き、代わりに「自分が一人で息子を育ててきた」という簡潔な物語だけが残っていた。

組織にとっても、それは都合のよい物語だった。

困難な私生活を抱えながらも職務を全うする社員の存在は、若手社員への模範として紹介できるし、会社が働きやすい職場であることを説明する材料にもなる。

その話を聞いた社員の一人が、研修後に同僚へ小さく漏らしていた。

「奥さんが亡くなってから、ずっとお義母さんが来てくれてたんでしょう。それを一人で両立したって言えるのかな」

同僚は曖昧に笑った。

「まあ、本人も大変だったんだろうし」

話はそれで終わった。

佐伯は、その会話を知らなかった。

03

マニュアルに書けないこと

ある月曜日、佐伯は経理部から依頼されていた業務マニュアルの改訂作業に取りかかっていた。

会社では近年、業務の属人化を解消する方針が進められており、長年同じ社員が担当してきた業務についても、誰が引き継いでも処理できるよう、手順書を整備することになっていた。

対象となったのは、取引先からの問い合わせ対応だった。

担当者の小川は、勤続三十二年になる女性社員で、複雑な問い合わせでも大抵はその場で処理してしまうため、社内では頼りにされていた。

しかし、彼女の業務には明文化されていない判断が多かった。

「例えば、この取引先から電話があった場合、最初に何を確認するんですか」

佐伯が尋ねると、小川は少し考えた。

「内容によりますね」

「それは分かりますが、判断基準を明文化したいんです」

「そうですねえ……相手の様子を聞けば、大体分かるんですよ」

「何が分かるんですか」

「急いでるのか、それとも単に不安なのか」

佐伯は手を止めた。

「電話の内容で判断するということですか」

「内容もですけど、声とか、話し方とか。長い付き合いですからね」

小川は、少し申し訳なさそうに笑った。

「それじゃマニュアルにならないですよね」

佐伯も笑った。

「いや、そこを何とか整理したいんですよ。小川さんが休んだときに、ほかの人でも対応できるように」

小川はうなずいた。

その後、二人で対応手順を整理し、問い合わせ内容ごとの処理方法を一覧表にまとめた。

佐伯は出来上がったマニュアルに満足した。

これで業務の標準化が進む。

その日の夕方、小川は取引先からの電話を受けていた。

相手は、注文書に記載された納期を一日早められないかと相談していた。

規則どおりなら、回答は難しいというものになる。

しかし、小川は相手の声を聞きながら、少し間を置いた。

「何かありましたか」

電話の向こうで、相手が黙った。

やがて、担当者が急に休むことになり、社内の調整がつかなくなったのだと説明し始めた。

小川は、以前にもその会社で似たようなことがあったのを覚えていた。

「分かりました。こちらでも少し確認してみますね」

その後、関係部署へ連絡して出荷順を調整し、納期を変更することができた。

小川は、その一連の判断について、特別なことをしたとは思っていなかった。

長年の経験から、そうした方がよいと感じただけだった。

佐伯が作成したマニュアルには、その判断について何も書かれていなかった。

04

黄色い表示

翌週、会社が試験導入していたAIシステムの分析結果が社員向けに公開された。

電子メールの送受信量、会議時間、勤怠情報、業務上のやり取りなどを集計し、本人が自覚していない心理的負担の兆候を推定するというもので、経営陣は離職防止や職場環境の改善につながるものとして期待していた。

佐伯は総務部の担当者として導入に関わっていたため、システムの仕組みはそれなりに理解していた。

AIが人間の心を直接読み取るわけではない。

あくまで、観測された情報から一定の傾向を推定するだけである。

そのことは分かっていた。

画面には複数の指標が並んでいた。

業務負荷は標準。

労働時間も標準。

対人関係については、おおむね良好。

ただし、最後の項目だけが黄色く表示されていた。

「心理的負担の蓄積が推定されます」

佐伯は首をかしげた。

仕事が忙しいのは昔からのことだし、家庭でも特に問題は起きていない。

それに、自分はストレスに強い方だと思っていた。

妻を亡くしたときでさえ、仕事を休んだのは必要最低限の日数だけだった。

周囲からは無理をしないようにと言われたが、何もしないでいる方がつらかったし、働いている間は余計なことを考えずに済んだ。

「少し疲れてるだけだろう」

佐伯はそうつぶやいて、画面を閉じた。

その日の午後、若手社員の水野が勤務時間の変更について相談に来た。

話を聞くと、家庭の事情で週に二日ほど早く帰宅したいということだったが、本人の説明は要領を得ず、佐伯は何度か聞き直さなければならなかった。

「つまり、来月から週に二日、早く帰りたいということだね」

「はい、できれば……」

「分かった。ただ、こういう話はもう少し早く相談してくれると助かるんだよ。周りにも予定があるからね」

水野は小さく頭を下げた。

「すみません」

「責めてるわけじゃないよ。次から気をつければいいから」

佐伯は微笑んだ。

水野も笑った。

少なくとも佐伯には、そう見えた。

05

三人の美紀

水曜日の夜、佐伯は珍しく早く帰宅した。

玄関には、見慣れた澄江の靴が並んでいた。

台所では、七十歳を過ぎた義母が夕食の準備をしていた。

「お義母さん、いつもすみませんね」

「いいのよ。悠斗も食べ盛りだから」

「本当に助かります」

佐伯は上着を脱ぎながら、そう言った。

澄江は微笑んだ。

夕食のあと、佐伯は会社で新しいシステムが導入されたことや、最近の若い社員は昔と考え方が違うという話をした。

澄江は静かに聞いていたが、やがて悠斗の学校の話を始めた。

「この前ね、悠斗が少し学校に行きたくないって言ってたの」

「そうなんですか」

「うん。何かあったのかと思って聞いたんだけど」

「まあ、中学生ですからね。いろいろありますよ」

佐伯は笑った。

「私もあの頃は、学校に行くのが面倒な日なんていくらでもありましたから」

澄江は何か言いかけたが、結局それ以上話さなかった。

しばらくして、話題は美紀のことになった。

「そういえば、あの子の写真、まだ悠斗の部屋にあるのね」

「ええ。昔から置いてますよ」

「美紀は写真を撮られるの、あまり好きじゃなかったのよ」

佐伯は少し驚いた。

「そうでしたっけ。旅行に行くと、いつも写真を撮ってた気がしますけど」

「撮るのは好きだったの。自分が写るのが苦手でね」

佐伯は、そんなことは知らなかったと思った。

いや、以前にも聞いたことがあったような気もする。

澄江は、少し遠くを見るような目をした。

「あの子、小さい頃から何でも自分でやりたがる子でね。人に頼るのが下手だったのよ」

佐伯は笑った。

「それは分かります。結婚してからもそうでしたから」

「そうでしょうね」

「だから、病気になったときも、もっと早く言ってくれればよかったのにって思うことがあるんです」

澄江は答えなかった。

佐伯は、美紀が病院へ行くことを先延ばしにしていたことを思い出していた。

仕事が忙しいと言い、家事があると言い、何度勧めてもなかなか受診しなかった。

佐伯にとって、美紀は頑固で、責任感の強い妻だった。

澄江にとって、美紀は小さな頃から無理をする娘だった。

そして悠斗にとって、美紀は、熱を出した夜に額へ手を当ててくれた母親であり、眠れないときに隣で本を読んでくれた母親だった。

同じ一人の人間について、三人がそれぞれ違う記憶を持っていた。

誰かが嘘をついているわけではない。

ただ、三人が生きてきた美紀との時間が、互いに異なっているだけだった。

その夜、澄江が帰ったあと、悠斗は自分の部屋で古いスマートフォンを取り出した。

美紀が使っていた端末だった。

亡くなったあと、佐伯が機種変更の手続きを済ませ、不要になった本体を引き出しにしまっていたものを、数年前に悠斗が譲り受けた。

通信契約はなく、保存されている写真や音声を再生するためだけに使っていた。

画面の中には、六年前の美紀がいた。

公園で笑っている美紀。

料理を作っている美紀。

まだ幼い悠斗の名前を呼ぶ美紀。

悠斗は、その中から短い音声を一つ選んだ。

「悠斗、ちゃんとご飯食べた?」

少し間があり、続いて笑い声が聞こえる。

「お父さんにも、ちゃんと食べさせてあげてね」

録音は、そこで終わっていた。

悠斗は何度もその音声を聞いた。

母親の声は、記憶の中にある声と少し違っていた。

もっと柔らかかった気もするし、もう少し低かった気もする。

それでも、そこにあるのは確かに母親の声だった。

悠斗は、画面を消した。

06

忘れる権利

翌月、AIシステムの運用について、社内で問題が持ち上がった。

ある社員が、自分に関する分析情報の削除を求めたのである。

本人の主張によれば、過去の業務上の発言や行動を継続的に分析されることは、会社に自分の心理状態まで推測されることにつながり、精神的な負担を感じるという。

会社側は、健康管理と職場環境の改善を目的とした仕組みであり、特定の社員を監視する意図はないと説明した。

しかし、問題はそれほど単純ではなかった。

佐伯は法務担当者とともに、個人情報保護法に関する資料を調べた。

個人に関する情報だからといって、本人があらゆる記録について無条件に削除を要求できるわけではない。

一方で、会社が業務上必要だと考えれば、どのような情報でも自由に収集し、保存し続けてよいというわけでもない。

利用目的、取得の適法性、必要性、安全管理、本人の権利。

検討しなければならない論点はいくつもあった。

「本人が忘れたいと言っている情報を、会社はどこまで保持できるんでしょうね」

会議中、若い法務担当者がそう言った。

佐伯は少し考えた。

「そもそも、本人が忘れたいということと、記録を消すべきかどうかは別の問題でしょう。必要な記録まで消してしまえば、後から事実関係を確認できなくなることもありますから」

「確かにそうですね」

「ただ、記録する目的が正当でも、使い方まで正当化されるとは限りません。そこは区別して考える必要がありますね」

法務担当者はうなずいた。

佐伯自身、よいことを言ったと思った。

会議のあと、自席へ戻る途中で、ふと別の疑問が浮かんだ。

もし誰かが、自分の過去の発言を覚えていたとして、その記憶を消してほしいと要求することはできるのだろうか。

もちろん、できないだろう。

他者の記憶は、本人が自由に削除できるデータベースではない。

仮に録音データを消せたとしても、言われた人間の記憶まで消すことはできない。

佐伯は、法律が扱うことのできる人間の情報には限界があるのだと思った。

そして、そのことを少し面白く感じた。

07

再現された声

ある日、悠斗は学校で生成AIを使った授業を受けた。

文章を作成したり、画像を生成したり、音声を合成したりする技術について学ぶ授業だった。

教師は、AIを使えば、短い音声データから特定の人物に似た声を作り出すこともできると説明した。

ただし、本人の許可なく声を利用することには問題があり、亡くなった人の声を再現する場合にも慎重な判断が必要だという。

悠斗は、その話を聞きながら、母親の古いスマートフォンを思い出していた。

夜、帰宅してから端末を取り出し、保存されている音声を聞いた。

もし、この声を使って、母親が今も話しているように再現できたら。

そう考えた。

母親に聞きたいことはいくつもあった。

中学校でのこと。

友人とのこと。

自分が将来何をしたいのか、まだよく分からないこと。

そして、父親には話せないこと。

悠斗はしばらく画面を見つめていたが、結局何もしなかった。

母親の声を再現することと、母親がそこにいることは違う。

その違いについて、十四歳の悠斗が明確な言葉で説明できたわけではない。

ただ、何となく嫌だった。

母親が言っていないことを、母親の声で聞くのが怖かった。

その夜、佐伯は帰宅してから息子の部屋をのぞいた。

「何してるんだ」

「昔の写真見てた」

「母さんのか」

「うん」

佐伯は画面を見た。

そこには、美紀が公園で笑っている写真が表示されていた。

「懐かしいな」

佐伯は言った。

「母さん、よく笑う人だったよな」

悠斗は少し考えた。

「そうかな」

「そうだよ。明るい人だった」

悠斗は、母親が泣いていた夜のことを覚えていた。

父親が仕事で遅くなった日、台所で一人、椅子に座って泣いていた母親の姿。

あれは何年前だっただろう。

悠斗には、その理由が分からなかった。

ただ、母親が自分に気づくと、すぐに笑ったことだけは覚えていた。

「そうだね」

悠斗は答えた。

佐伯は満足そうにうなずいた。

「母さんのこと、忘れないでやってくれよ」

「うん」

佐伯は部屋を出ていった。

悠斗は、しばらく扉を見つめていた。

母親のことを忘れたことなど、一度もなかった。

08

金曜日の酒

その週の金曜日、佐伯は総務部の数人と飲みに行った。

年末が近づき、職場には忙しさと疲労が蓄積していたが、久しぶりに顔を揃えた飲み会は楽しく、話題は仕事の愚痴から昔の社員旅行、最近の若者の価値観へと移っていった。

佐伯は酒が好きだった。

家で一人で飲むことは、ほとんどなくなっていた。

誰かと話しながら飲む酒の方が、ずっとおいしい。

その日も最初のビールがうまく、二杯目、三杯目と進むうちに、普段より少し大きな声で話すようになっていた。

「佐伯さんって、すごいですよね」

若い男性社員が言った。

「何が?」

「奥さんが亡くなってから、ずっと一人で息子さん育ててるんでしょう。それで仕事も普通にこなしてるじゃないですか」

佐伯は照れくさそうに笑った。

「まあ、何とかなるもんだよ」

「自分だったら無理だと思います」

「いやいや、実際にそうなれば、やるしかないからね」

周囲が感心したようにうなずいた。

佐伯は悪い気がしなかった。

自分の苦労を誰かが理解してくれることは、素直にうれしかった。

誰かが日本酒を注文した。

そのあと焼酎を飲んだ。

会話はさらに弾み、佐伯はいつになく饒舌になった。

二軒目に行ったことは覚えている。

誰が会計をしたのかは、よく覚えていない。

帰宅した時刻も曖昧だった。

翌朝、リビングのソファで目を覚ました。

テーブルには水の入ったコップが置かれ、脱ぎっぱなしだった上着は椅子に掛けられていた。

息子が片づけてくれたのだろう。

佐伯は頭痛をこらえながら、少し飲みすぎたと思った。

だが、久しぶりに楽しい酒だった。

そういう日もある。

09

誰かの中の私

翌週、水野が退職することになった。

以前、勤務時間の変更について相談に来た若手社員だった。

佐伯は意外に思ったが、本人の意思が固いと聞き、無理に引き止めることはしなかった。

最終出勤日、水野は総務部の社員たちに挨拶をして回った。

佐伯のところにも来た。

「今までありがとうございました」

「こちらこそ。次の職場でも頑張って」

「はい」

少し間があった。

「佐伯さん、私、前に言ってもらったこと、ずっと覚えてるんです」

「何か言ったかな」

「覚えてないんですね」

佐伯は苦笑した。

「すまない。最近、物忘れがひどくてね」

水野も笑った。

「いえ、いいんです」

それ以上、彼女は何も言わなかった。

佐伯は、自分が何か役に立つことを言ったのだろうと思った。

彼女が感謝しているのだから、きっとそうなのだろう。

実際、水野は以前、仕事を辞めようかと悩んでいたとき、佐伯から何気なく声をかけられたことを覚えていた。

「無理してここにいる必要はないよ。人生は仕事だけじゃないんだから」

その言葉が、彼女にとって退職を決断するきっかけになっていた。

佐伯に悪意はなかった。

むしろ、彼女を気遣っていた。

だが、彼女はその言葉を聞いて、自分はこの職場に必要とされていないのかもしれないとも感じていた。

励ましと拒絶。

同じ一つの言葉が、二つの意味を持っていた。

水野自身、そのどちらが本当だったのか、今でも分からなかった。

10

記録されないもの

それから数日後、佐伯は会社の共有フォルダに残されていたAI研修の資料を読み返していた。

暗黙知と形式知。

人間の経験のうち、言葉にできるものと、できないもの。

研修では、野中郁次郎という研究者が提唱した知識創造の考え方についても説明されていた。

人と人が経験を共有し、暗黙の知識を言葉にし、それを組み合わせ、再び実践することで、新しい知識が生まれていくという。

佐伯は、以前マニュアルを作成した小川のことを思い出した。

あのとき、彼女は自分の判断をうまく説明できなかった。

しかし、それは知識がなかったからではない。

長年の経験によって培われた判断が、言葉として整理されていなかっただけなのだろう。

佐伯は、少し反省した。

マニュアルを作ることばかり考えて、彼女が何を見て判断しているのか、十分に聞き取れていなかったのかもしれない。

次に改訂する際には、もう少し丁寧に話を聞こう。

そう思った。

そのとき、別の考えが浮かんだ。

人間についての情報は、本人の中だけに存在しているわけではない。

自分が覚えている経験。

自分では説明できない知識。

他者が覚えている言葉。

誰かの中に残された感情。

デジタルに保存された発言や行動の記録。

それらは互いに重なり合いながら、一人の人間についての情報を形づくっている。

しかし、本人がそのすべてを知ることはできない。

そして、他者やAIがそのすべてを知っているわけでもない。

佐伯は、なかなか面白いことを考えたと思った。

自分が何気なく言った言葉を、誰かは一生覚えているかもしれない。

反対に、自分が大切にしている出来事を、相手はすっかり忘れているかもしれない。

人間は、自分自身の人生についてさえ、完全な記録を持っていない。

まして、他者の人生の中で自分がどのような存在だったかなど、知りようがない。

佐伯はノートを開き、思いついた文章を書き留めた。

「私が忘れた昨日を、誰かは生きている」

悪くない表現だった。

人間とは、自分が思っている以上に多くのものを持っている存在なのだろう。

佐伯は、そんなことを考えた。

11

父親の言葉

その夜、悠斗は自室で学校の課題に取り組んでいた。

翌日も学校があるため、そろそろ寝なければと思っていた。

机の上には、母親の写真が置かれていた。

写真の中の美紀は、まだ三十代だった。

悠斗には、母親と過ごした八年間の記憶がある。

一緒に買い物へ行ったこと。

熱を出した夜、額に手を当ててもらったこと。

些細なことで叱られたこと。

そして、母親が亡くなる少し前、病院で交わした会話。

悠斗は、その会話を誰にも話したことがなかった。

父親にも、祖母にも。

自分だけが覚えていればいいと思っていた。

階下で玄関の扉が開く音がした。

父親が帰ってきた。

いつもより少し大きな音だった。

悠斗は時計を見た。

午後十一時四十分。

父親が酒を飲んで帰ってきたときは、階段を上がってこないでほしいと思うことがあった。

別に暴力を振るわれるわけではない。

大声で怒鳴られることも、ほとんどない。

ただ、普段は言わないようなことを、冗談めかして言うことがあった。

そして翌朝には、何も覚えていない。

階段を上がる足音が聞こえた。

悠斗は机に向かったまま、背中を少し硬くした。

扉が開いた。

「まだ起きてたのか」

「うん」

「勉強か。偉いな」

佐伯は上機嫌だった。

椅子の背に手を置き、机の上を眺めた。

「母さんの写真、まだ飾ってるんだな」

「うん」

「お前は母さんが好きだったもんな」

悠斗は答えなかった。

佐伯は、少し笑った。

「まあ、母さんがいなくなってからは、父さんが一人で頑張ってきたわけだけどな」

いつもの言葉だった。

悠斗は、何も言わなかった。

佐伯は写真立てを手に取った。

「父さんも大変だったんだぞ。仕事もあるし、お前のこともあるし」

「うん」

「でも、まあ、お前がちゃんと育ってくれてよかったよ」

そこで、佐伯は何かを思い出したように言った。

「そういえば、お前、最近ばあちゃんのところによく行ってるんだってな」

「うん」

「まあ、ばあちゃんも暇だからな。相手してやると喜ぶだろ」

悠斗は、ゆっくり父親の方を向いた。

祖母が、毎週夕食を作ってくれること。

父親が来られなかった学校行事に、代わりに出席してくれたこと。

母親のことを思い出して泣く夜に、隣に座ってくれたこと。

自分が学校へ行きたくないと言ったとき、何も聞かずに一緒に散歩してくれたこと。

そうした出来事が、悠斗の頭の中に浮かんだ。

父親は、それらを知らない。

いや、いくつかは知っているはずだった。

ただ、覚えていないのだ。

「ばあちゃん、暇じゃないよ」

悠斗は小さな声で言った。

「ん?」

「何でもない」

佐伯は気づかなかった。

写真立てを机に戻し、息子の肩を軽くたたいた。

「まあ、お前もそのうち分かるよ。親になるって大変なんだぞ」

佐伯は笑った。

悠斗は、笑わなかった。

それから父親は部屋を出ていった。

扉が閉まったあとも、悠斗はしばらく動かなかった。

12

翌朝

翌朝、佐伯はいつもどおり六時四十分に目を覚ました。

少し頭が重かった。

昨夜は同僚と飲み、楽しく話して帰ってきた。

帰宅後のことは、あまり覚えていない。

台所には、澄江が作ってくれた煮物が残っていた。

佐伯はそれを温め、卵を焼いた。

七時になっても、悠斗は下りてこなかった。

佐伯は、それを特に気に留めなかった。

佐伯は一人で朝食を食べた。

食後、コーヒーを飲みながら、昨日書いた文章を読み返した。

「私が忘れた昨日を、誰かは生きている」

人間という存在の不思議さを、うまく表現できたように思えた。

自分の知らないところで、誰かの役に立っているかもしれない。

知らないうちに、誰かの人生に影響を与えているかもしれない。

そう考えると、人間は実に豊かな存在だった。

佐伯は、少し満足した。

二階では、悠斗が古いスマートフォンを手に取っていた。

母親の音声が保存されている端末だった。

画面を操作し、いつもの録音を再生した。

「悠斗、ちゃんとご飯食べた?」

少し間があり、笑い声が聞こえた。

「お父さんにも、ちゃんと食べさせてあげてね」

悠斗は、その声を聞きながら、昨夜の父親の言葉を思い出していた。

「ばあちゃんも暇だからな」

父親にとっては、取るに足らない冗談だったのだろう。

だが、悠斗にとって祖母は、母親が亡くなったあと、自分が一人ではないことを教えてくれた人だった。

父親が仕事へ行っている間に、何度も迎えに来てくれた。

父親には話せないことを、聞いてくれた。

父親が知らない自分を、知っている人だった。

悠斗は、その祖母の時間が、父親の一言によって、まるで何もなかったもののように扱われた気がしていた。

そして、それ以上に悲しかったのは、父親が悪意なくそう言ったことだった。

父親はきっと、自分が何を言ったのか覚えていない。

仮に覚えていたとしても、なぜ傷ついたのか分からないだろう。

悠斗は、そのことを知っていた。

父親と暮らした六年間で、そういうことだけはよく分かるようになっていた。

悠斗は学校へ行く前に、祖母へメッセージを送ることにした。

「今日、そっち行ってもいい?」

返信はすぐに届いた。

「もちろん。晩ご飯、何が食べたい?」

悠斗はしばらく考えた。

「なんでもいい」

少しして、もう一通送った。

「ばあちゃん、いつもありがとう」

階下で、佐伯のスマートフォンが鳴った。

会社からの業務連絡だった。

佐伯は画面を見て、すぐに返信を始めた。

その頃、澄江は悠斗からのメッセージを読み、台所でしばらく立ち止まっていた。

その言葉を、彼女はきっと長く覚えているだろう。

佐伯は、そのことを知らなかった。

階下から、父親の声が聞こえた。

「悠斗、朝飯できてるぞ」

いつもと同じ声だった。

悠斗は返事をしなかった。

父親はもう一度呼んだ。

「悠斗?」

少し間を置いて、悠斗は答えた。

「今行く」

古いスマートフォンを引き出しにしまい、部屋を出た。

階段を下りる途中、悠斗はふと思った。

父親は、母親が亡くなってから、自分を一人で育ててきたと思っている。

きっと、これからもそう思い続けるのだろう。

そして自分も、いつか父親のようになるのだろうか。

誰かに支えられていることを忘れ、自分一人で生きてきたと思うようになるのだろうか。

その問いに、答えはなかった。

台所では、佐伯が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「おはよう」

「よく寝たな」

「うん」

佐伯は、息子の様子がいつもと変わらないことに安心した。

今日も、特に問題のない一日が始まった。

少なくとも、佐伯にとっては。

その日の午後、佐伯は会社のAIシステムにログインし、心理的負担の推定結果を確認した。

黄色い表示は、まだ消えていなかった。

佐伯はその数字をしばらく眺めた。

先月と比べて、少し改善しているようにも見えた。

測定には誤差がある。

それは分かっている。

何しろ、人間の心を数値だけで表現できるわけではないのだから。

佐伯は画面を閉じた。

自分は大丈夫だ。

仕事も家庭も、それなりにうまくやっている。

そう考えながら、翌週の予定を確認し始めた。

そして、昨夜の自分の言葉についても、もう考えることはなかった。

人間は、自分が思っている以上に多くのものを持っている。

知識も、経験も、記憶も。

そして、他者の中に残された、自分自身についての無数の情報も。

それらの中には、人を支えるものもあれば、人を傷つけるものもある。

本人がそれを知っているかどうかとは、関係なく。

私が忘れた昨日を、誰かは生きている。

そして、その誰かが私を忘れようとしていることさえ、私は知らない。

――終――

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