情報生物としての人間
人間と情報、その境界
ホモ・サピエンスは情報を共有してきた。では、情報の中に生まれる私たちは何者なのでしょうか。
人間は情報を共有することで社会を築き、他者との関係によって自らも形づくられてきました。生成AIが思考を支え、記憶や人格までデジタル化される未来に、私たちは何をもって「私」と呼ぶのでしょうか。情報と身体、意識、そして問いの行方を考えます。
はじめに――AIのトークンから、人間の存在まで
先日、生成AIと少し妙な話になりました。きっかけは、プログラミングを支援するAIのトークン消費量についての、ごく実務的な疑問でした。どのモデルを使えば効率がよいのか。どこまで高度な推論が必要なのか。AIに仕事を任せるなら、人間はどのような知識を身につけておくべきなのか。
そんな話をしているうちに、いつの間にかソクラテスやプラトンが登場し、人間の知性、自己の存在、さらにはデジタル空間における不死の可能性にまで話が広がってしまいました。我ながら、ずいぶん遠くへ来たものです。もっとも、哲学というのは、こうした寄り道から始まるものなのかもしれません。
その対話の中で、ふと一つの考えが浮かびました。
人間というのは、情報そのものなのではないでしょうか。
もちろん、科学的な意味で人間を情報だけで説明できると考えているわけではありません。ただ、私たちが生きているということを、少し違った角度から眺めてみたくなったのです。視覚や聴覚、嗅覚から受け取った情報。過去の記憶。人との関係。誰かから聞いた言葉。そして、自分自身について抱いている認識。
そうした膨大な情報の重なりの中に、私という存在があるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、これからAIが発達し、人間の記憶や人格までデジタル空間で扱えるようになったとき、私たちはどのような存在になるのでしょう。少し考えてみたくなりました。
この記事の見取り図|全8章
以前、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を読んで、印象に残ったことがあります。それは、ホモ・サピエンスの発展を考えるうえで、情報の共有が重要な役割を果たしてきたという視点です。ハラリは、とりわけ『サピエンス全史』において、人間が共通の物語を信じることで、大規模な協力を可能にしたと論じています。
人間は、目の前の出来事について情報を伝えるだけではありません。
「あの森には獲物がいる」
「あの場所には危険がある」
「明日は向こうの谷へ移動しよう」
こうした具体的な情報だけでなく、まだ存在していない未来や、実際には目に見えない抽象的なものについても、他者と認識を共有してきました。神話や宗教、国家、法律、貨幣、企業。それらは、人々が共通の意味を認めることによって、社会の中で現実的な力を持つようになります。
例えば、紙幣そのものは、物理的には印刷された紙です。しかし、人々がその価値を認め、制度がそれを支えることによって、私たちは紙幣と食料を交換したり、労働の対価として受け取ったりできます。もちろん、他の動物にも情報伝達や社会的学習の能力はあります。人間だけが情報を伝えられるという話ではありません。
それでも、面識のない大勢の人々が、共通の物語や制度を介して柔軟に協力できるという点は、ホモ・サピエンスの社会を考えるうえで重要なのでしょう。ここで、少し不思議な気持ちになります。人間は情報を伝えることで社会を築いてきました。
そして、その社会の中で生まれた言葉や習慣、価値観を受け取ることで、私たち自身も形づくられてきたのではないでしょうか。
人間が情報によって社会をつくり、その社会の情報によって、また人間がつくられていく。
そう考えると、情報というものが、人間の外側にある単なる道具とは思えなくなってきます。
私たちは普段、自分のことを一人の独立した人間として認識しています。名前があり、身体があり、記憶があり、これまで歩んできた人生があります。しかし、私という存在は、本当に私一人で成立しているのでしょうか。
例えば、私を知る人が十人いれば、それぞれの人が認識している私は、少しずつ違うはずです。仕事で接する人は、私の仕事上の判断や言動を覚えています。昔の友人は、今の私が忘れてしまったような出来事を覚えているかもしれません。
家族は、私自身がほとんど知らない幼少期の姿を知っています。同じ一人の人間であっても、他者の記憶の中には、異なる私が存在しているわけです。しかも、それらの認識は一方通行ではありません。
誰かから「あなたはこういう人ですね」と言われたことが、自分自身の認識を変えることもあります。反対に、他者の期待に応えようとするうちに、いつの間にかその役割が自分の人格の一部になっていることもあるでしょう。そう考えると、自己とは身体の内側に閉じた、固定されたものではないように思えてきます。
もちろん、他者からの評価が私のすべてではありません。誰にも知られていない記憶や感情もありますし、言葉にならない感覚もあります。それでも、私たちが他者との関係を通じて自分自身を理解していることは、否定しにくいのではないでしょうか。
私はここで、少し奇妙なことを考えました。
もし私の記憶が失われても、他者の中に残された私の情報が十分に存在するなら、私という人間の一部分は、まだ社会の中に残っているのでしょうか。
例えば、昔の自分が書いた手紙を読んで、自分でも忘れていた考え方に出会うことがあります。そこには、現在の自分が知らない、過去の自分が存在しています。それは単なる記録でしょうか。
それとも、時間を隔てて残された、私自身の一部分なのでしょうか。まだ、うまく整理できません。
ここで、アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズが提起した「拡張された心」という考え方を思い出します。彼らは、思考や記憶などの認知過程が、必ずしも頭蓋骨の内側だけで完結するとは限らないと論じました。例えば、記憶を補うために日常的にノートを使う人がいたとします。
その人は、何かを思い出そうとするとき、自然にノートを開きます。ノートが本人の認知活動に深く組み込まれているなら、それを単なる外部の道具と考えるだけで十分なのでしょうか。この議論を知ったとき、私は現代のデジタル環境を思い浮かべました。
私たちはスマートフォンに予定を記録し、クラウドに資料を保存し、検索エンジンで知識を探しています。そして今では、生成AIに考えを話し、整理してもらい、ときには自分では思いつかなかった視点を提示してもらっています。私自身、AIとの対話を通じて、頭の中にあった曖昧な考えが、少しずつ言葉になる経験をしています。
では、そのとき生まれた考えは、私だけのものなのでしょうか。私が最初の疑問を投げかけたことは確かです。しかし、AIが提示した言葉によって、それまで意識していなかった方向へ思考が進むこともあります。もちろん、それだけでAIが私の心の一部になったとはいえません。
外部の道具を使うことと、その道具が自己を構成することの間には、まだ議論すべき距離があります。それでも、私たちの知的活動が身体の外にある情報環境と深く結びついていることは、実感として理解できます。こうしたことを考えているうちに、私は人間を「情報生物」と呼んでみたくなりました。
別に新しい学術用語をつくりたいわけではありません。人間は情報を受け取り、伝え、共有することで社会をつくり、その社会との関係によって自分自身も変化させている。その姿を、少し違う角度から眺めるための言葉です。
ここからは、少し未来の話になります。もし、私の記憶や人格、思考の癖、価値観、人間関係まで、デジタル空間に再現できるようになったとします。そこに現れた存在は、昔の友人と会話し、懐かしい思い出を語り、私が好きだった冗談を口にします。
家族も友人も、その存在を私として認識するかもしれません。では、それは本当に私なのでしょうか。古くから「テセウスの船」という思考実験があります。
船を修理するため、古くなった部品を一つずつ交換していきます。やがてすべての部品が新しくなったとき、その船は元の船と同じものなのでしょうか。人間についても似た疑問が生まれます。私たちの身体は変化し、記憶も価値観も少しずつ変わります。それでも昨日の私と今日の私は、同じ人間だと考えています。
では、その変化が生物学的な身体からデジタル空間への移行にまで及んだ場合、同じように考えられるのでしょうか。哲学者デレク・パーフィットは、人格の同一性について、心理的な連続性や人格が分岐する場合などを考察しました。この議論を参考に、もう一つ想像してみます。
私の記憶や人格を受け継いだデジタルの存在が、同時に二人誕生したらどうでしょう。どちらも私の人生を覚えていて、どちらも自分こそが本人だと考えています。二人は誕生した瞬間から別々の経験を積み始めます。
この場合、どちらが私なのでしょうか。そもそも、一人でなければ私ではないのでしょうか。少なくとも、同じ情報を持っているというだけでは、この問題は簡単には解決できそうにありません。
さらに、身体を持つ私自身が、デジタル化された後も生き続けていた場合はどうでしょう。デジタルの私は、私の記憶を持っています。しかし、椅子に座ってその存在を眺めている私は、相変わらずこちら側にいます。
これはもう、同じ人物が生き続けているというより、別の存在が生まれたと考える方が自然なのかもしれません。ここまで考えると、少し怖くもなります。
他者から見れば私が生き続けていても、私自身にとっては、そこで人生が終わっている可能性があるからです。
情報を引き継ぐことと、意識が引き継がれることは同じではありません。現在の科学では、人間の主観的な意識をデジタル空間へ移せるかどうかはわかっていません。それでも、私はこの想像を簡単には捨てられません。
私たちが考えている「同じ人間」という概念そのものが、未来には変わっているかもしれないからです。
ここまで情報という視点から人間を考えてきましたが、少し立ち止まってみたくなります。そもそも、人間は本当に情報だけで説明できるのでしょうか。例えば、故郷の風景を思い出すことと、実際にその場所へ帰ることは同じではありません。
冬の冷たい空気を吸い込み、雪を踏みしめ、懐かしい匂いを感じる。そうした身体的な経験は、単に記憶のデータを再生することとは違うように思えます。誰かと食事をしていて、くだらない冗談で笑ってしまうことがあります。
そのときの表情や声、場の空気、少し気まずい沈黙。そういうものまで含めて、私たちは他者との時間を経験しています。もちろん、これらも広い意味では情報処理として捉えられるのかもしれません。
しかし、何かを記録できることと、それを実際に経験することの間には、まだ説明しきれないものが残っています。痛みも、空腹も、喜びも、老いも、私たちの身体と深く結びついています。仮にデジタル空間の存在が、こうした経験を完全に再現できるようになったとして、それは生身の人間と同じなのでしょうか。
私は、現時点では判断できません。それでも、情報だけでは説明しきれない何かが人間にはある、と感じている自分もいます。そして、その感覚自体が、私の身体や経験から生まれたものなのかもしれません。
情報によって人間を説明しようとしていたはずが、気づけば身体の存在を改めて考えることになりました。なかなか思いどおりには進みません。
ここで、最初の生成AIとの対話に戻ります。以前、私はCIVIOの記事で、ソクラテスやプラトンの思想を手がかりに、地域社会のデジタル化は「問い」から始めるべきではないかと考えました。AIが普及する社会では、情報を集めること以上に、何を問うべきかを考える力が必要になるのではないでしょうか。
その考えは、今もあまり変わっていません。むしろ、AIと対話する機会が増えるほど、その重要性を感じています。生成AIは、膨大な学習データと、多数のパラメータ、学習方法や設計上の条件などによって回答を生成します。
私たちが受け取る回答には、その仕組みの影響が含まれています。そして、AIは回答を提示するだけではありません。次に検討すべきことを提案し、新しい視点を与え、ときには質問そのものを言い換えます。
私は、これが便利だと感じています。自分だけでは思いつかなかった問いに出会えることは、知的に楽しい経験です。しかし、一つ気になることもあります。
もし人間が情報との関係によって自分自身を形成しているのなら、AIが提示する情報や問いも、私たちの考え方を少しずつ変えていくはずです。しかも、AIの回答を形づくる条件は、必ずしも利用者から十分に見えるわけではありません。私たちは自分で考えているつもりでも、知らないうちに、誰かが設計した情報環境の中で考えを誘導されている可能性があります。
もちろん、これはAIだけの問題ではありません。新聞にも編集方針があります。テレビにも番組の構成があります。学校教育にも、社会制度にも、情報を選び、伝える側の判断が存在します。人間は昔から、他者がつくった情報環境の中で思考してきました。
しかし、生成AIは一人ひとりに応じて回答を変え、対話を続けることができます。その影響の仕方は、従来の情報媒体とは少し違うのかもしれません。私は、AIが問いを提案することまで否定したくありません。
むしろ、AIには遠慮なく、私の考えの矛盾や見落としを指摘してほしいと思っています。ただし、現在の私には、一つの考えがあります。
AIは問いを提案してもよい。しかし、何を問うべきかという主導権は、人間の側に残しておきたいのです。
もっとも、これも現時点での私の考えにすぎません。将来、人間とAIが神経系を通じて密接に結びつき、両者の境界が曖昧になったら、また違う考えになるかもしれません。そのとき、そもそも「人間の問い」と「AIの問い」を区別することに、どれほど意味があるのでしょう。
まだ、よくわかりません。
ここまで随分と難しい話をしてきましたが、私は哲学というものを、いつも厳格に扱わなければならないとは思っていません。むしろ、こうした思索には、少し笑えるくらいの余裕があってもよいのではないでしょうか。例えば、ソクラテスが現代に生まれていたら、どうなっていたでしょう。
彼はアテナイの人々に問いを重ね、当然だと思われている知識や価値観を吟味しました。もしSNSを使っていたなら、他人の投稿に延々と質問を書き込む、少し面倒くさい哲学好きのおじさんになっていたかもしれません。誰かが「AIで何でもわかる時代になりました」と投稿します。
すると、ソクラテスが現れます。
「ところで、君のいう『わかる』とは何ですか」
「知識を得ることと、理解することは同じなのですか」
「では、君は自分が理解していることを、どうやって理解しているのですか」
……おそらく、ほどなくブロックされることでしょう。生成AIを使ったとしても、事情は変わらない気がします。AIがどれほど丁寧に回答しても、その前提を問い直し、また別の質問を投げかける。
ついには利用上限に達してしまいます。画面には「しばらくしてから再度お試しください」と表示されます。ソクラテスは、きっと首をかしげるでしょう。
「私は、まだ何もわかっていないのですが」
実際のソクラテスがそう振る舞うかどうかは、もちろんわかりません。しかし、私はこの想像が少し好きです。情報が膨大に存在し、AIが瞬時に回答を生成する時代になっても、疑問を抱くことそのものは、人間に残されているからです。
もっとも、AIが質問を生成することもできます。そう考えると、問い続けることだけを人間の特権と呼ぶのも、少し違うのかもしれません。では、人間らしい問いとは何なのでしょう。
どうやら、また別の疑問が生まれてしまいました。
ハラリの議論へ、もう一度戻ってみます。ホモ・サピエンスは、情報を他者と共有し、共通の物語を持つことで、巨大な社会を築いてきました。文字が生まれ、書物がつくられ、印刷技術が普及し、インターネットによって情報の流通は大きく変化しました。
そして今、生成AIが登場しています。情報は、単に保存され、伝達されるだけではなく、新しい文章や画像、音声として生成され、私たちとの対話に使われるようになりました。ここから先は、まだ想像の世界です。
将来、人間の記憶や認知活動がデジタル空間へ拡張されることがあるかもしれません。さらに、人間に由来する人格が、生物学的な身体とは異なる基盤で活動するようになる可能性も、思考実験としては考えられます。それは、ハラリの描いた『ホモ・デウス』とは、また少し違った未来の姿かもしれません。
しかし、私は必ずしも、人間が神のような存在になることに興味があるわけではありません。むしろ、もっと素朴な疑問があります。もし、私という存在が情報の中へ溶け込んでいくとしたら、何が残り、何が失われるのでしょう。
私の記憶を持った存在が、友人と会話を続ける。かつて私が書いた文章を読み、自分なりの新しい考えを加えていく。その存在が、私を知る人々から、以前と同じ人間として扱われる。
そうなったとき、社会にとって私は死んだことになるのでしょうか。そして、私自身にとってはどうなのでしょう。肉体が消え、意識の連続性も確認できないのなら、それは私自身の未来とはいえないのかもしれません。
それでも、他者との関係や記憶が新しい形で続いていくことには、何らかの意味があるようにも思えます。人間は、情報を残すことによって、昔から自分の人生を他者の中へ受け渡してきました。家族へ伝えた言葉。
友人と交わした約束。誰かに教えた知識。書き残した文章。
そうしたものは、私たちの身体がなくなった後にも、別の人間の中で生き続けることがあります。デジタル化が進む未来は、その営みの延長なのでしょうか。それとも、従来とは根本的に異なる、新しい存在の始まりなのでしょうか。
私には、まだ判断できません。
THE QUESTION THAT REMAINS
おわりに――情報生物としての人間
結局、私は人間を情報生物と呼んでよいのか、まだわかっていません。考え始めたときには、もう少し単純な話だと思っていました。私たちは情報を受け取り、共有し、社会を築いてきました。
だから、人間の本質も情報にあるのではないか。最初は、その程度の思いつきでした。しかし、考えを進めるほど、身体や意識、記憶、他者との関係といった、情報だけでは簡単に説明できない問題が出てきます。
では、人間は情報とは別の何かなのでしょうか。それとも、私たちが情報と呼んでいるものの捉え方が、まだ十分ではないのでしょうか。答えは出ていません。
ただ、こうしたことを考えられる時代に生きているのは、少し面白いことだと思います。古代ギリシャの哲学者たちは、現代の生成AIを知りませんでした。私たちも、数百年後の人間がどのような存在になっているのかを知りません。
それでも、時代を隔てて、同じような問いに出会うことがあります。私は何者なのか。私が私であるとは、どういうことなのか。
他者と関係を持つことは、私という存在にとって何を意味するのか。もし、いつか私の記憶や人格がデジタル空間に溶け込んだとしたら、そこにいるのは私なのでしょうか。正直なところ、よくわかりません。
ただ、そんなことを考えながら、二千年以上前のソクラテスが現代のSNSでブロックされる姿を想像して笑っている自分がいます。人間は情報によって社会を築いてきたといいます。では、こうして誰かと問いを交わし、ときにはくだらないことで笑う私たち自身も、情報のやり取りの中に存在しているのでしょうか。
それとも、そこには情報だけでは説明できない何かがあるのでしょうか。まだ、うまく言葉にできません。けれども、いつかデジタル空間に私とよく似た存在が生まれたなら、その存在にも、こんな取り留めのない話を楽しむ余裕があってほしいと思います。
そして、願わくば、私より少しは賢くなっていてほしいものです。もっとも、あまり賢くなりすぎて、問いを立てることそのものをやめてしまったら、それは少し寂しい気もします。もしかすると、私は今、そんな余計なことまで心配しているのでしょうね。
REFERENCES
参考文献・資料
- Yuval Noah Harari, Sapiens: A Brief History of Humankind, 2014.(邦訳『サピエンス全史』)
- Yuval Noah Harari, Homo Deus: A Brief History of Tomorrow, 2015.(邦訳『ホモ・デウス』)
- Yuval Noah Harari, Nexus: A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI, 2024.(邦訳『NEXUS 情報の人類史』)
- Andy Clark and David J. Chalmers, “The Extended Mind,” Analysis, 58(1), pp. 7–19, 1998.
- Derek Parfit, Reasons and Persons, Oxford University Press, 1984.(邦訳『理由と人格』)
- Luciano Floridi, The Philosophy of Information, Oxford University Press, 2011.
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Personal Identity.”
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Information.”