何も変わらない男

選ばないことで、人生は静かに決まっていく

選ぶことに少しずつ疲れていた四十歳の男は、決断代行サービス「セレクト」に生活を委ねていく。便利さに助けられ、失敗も後悔も減った末に、彼が失ったものは何だったのか。AIと自由、現状維持の代償を静かに描く現代寓話。

男は四十歳だった。
独身で、ひとり暮らしをしていた。

特に変わった男ではなかった。
会社には遅刻せず、頼まれた仕事は期限までに終えた。
同僚と昼食を取り、たまには友人とも酒を飲んだ。

部屋には服も本もあった。
少し古いテレビと、安いコーヒーメーカーもあった。
冷蔵庫には卵と水だけでなく、作り置きのカレーや買ったまま忘れた調味料も入っていた。

ただ、男は選ぶことに疲れていた。

新しい靴を買おうとすれば、価格と素材と口コミを比べた。
一つを選びかけると、別の商品が目に入った。
買ったあとに値下がりするかもしれない。
来月には、もっと軽い新製品が出るかもしれない。

男は画面にいくつも商品を並べたまま、結局何も買わないことが増えた。

友人への返信も同じだった。
断れば冷たいと思われるかもしれない。
引き受ければ後悔するかもしれない。
文面を何度も書き直しているうちに、返事をするには遅すぎる時間になった。

男は優柔不断だと思われたくなかった。
自分では慎重なだけだと思っていた。


会社では真面目に働いていた。
判断を求められなければ、仕事はよくできた。

ある日、上司が言った。
「係長になってみないか」

男はすぐには断らなかった。
給料は上がる。
仕事の幅も広がる。
だが部下を持つことになる。
会議も増える。
自分の判断で誰かを困らせるかもしれない。

男は利点と欠点を紙に書いた。
経験者にも話を聞いた。
昇進した場合と断った場合の収入を計算した。
それでも決められなかった。

返事をしないまま一週間が過ぎた。
係長には別の同僚が選ばれた。

男は少し残念だった。
それ以上に、ほっとした。

休日には何をしてもよかった。
旅行へ行ってもいい。
映画を見てもいい。
友人と会ってもいい。

ある土曜日、友人から映画に誘われた。
男は上映時間と座席と評判を調べた。
帰りの天気まで確認した。

どの回がよいか決められないまま夕方になった。
男がようやく返信すると、友人から短い返事が届いた。

『もう見てきた。また今度。』

男は少し寂しくなった。
だが、適当に決めて失敗するよりはよかったと思った。


ある晩、男は壊れかけた電気ケトルの買い替えを調べていた。

候補は四十七種類あった。
容量、消費電力、沸騰時間、安全機能。
口コミには、同じ商品を褒める人と罵る人がいた。

男が比較動画を見ていると、画面に広告が表示された。

あなたの代わりに決断します。

決断代行サービス「セレクト」

男は笑った。
「そんなものを使う人間がいるのか」

広告を閉じようとした。
その下に小さく書かれていた。

七日間無料。

いつでも解約できます。

無料なら損はない。
男は登録した。

最初に、電気ケトルの候補を読み込ませた。

候補27を推奨します。

価格、耐久性、安全性の均衡が最も優れています。

男は言われたとおりに注文した。
翌日届いたケトルは、湯が早く沸き、注ぎ口からもこぼれなかった。

男は少し感心した。

翌朝、端末が話しかけてきた。

本日の朝食を選びますか。

「任せる」

トーストとブラックコーヒーを推奨します。

男はトーストを焼いた。
新しいケトルで湯を沸かした。
出勤前には服も選んでくれた。

紺色のシャツを推奨します。

その日、同僚から言われた。
「その色、似合うね」

昼には食堂のメニューを選んでくれた。

A定食を推奨します。

午後の会議では、発言するタイミングを教えてくれた。
男の説明は簡潔だと褒められた。

帰宅時には、最も混雑しない道を案内した。
いつもより十二分早く家に着いた。

週末には友人から食事に誘われた。
男はセレクトに尋ねた。

参加を推奨します。

人間関係の維持に有益です。

店も待ち合わせ時間もセレクトが決めた。
男は久しぶりによく笑った。
友人は言った。
「最近、決めるのが早くなったな」

男は少し誇らしくなった。

生活は順調だった。
迷う時間が減った。
小さな失敗も減った。
後悔することも少なくなった。

一週間後、端末が尋ねた。

有料プランへ移行しますか。

月額料金が表示された。
男は迷った。
すると端末が言った。

継続を推奨します。

これまでに二時間四十二分の意思決定時間を削減しました。

判断後の満足度は九十一パーセントです。

「では、そうしてくれ」
男は有料プランへ移行した。

それからは、少しずつ多くのことをセレクトに任せた。
歯磨き粉。
散髪の日。
読む本。
見る番組。
上司への返事。
眠る時間。

どれも小さな判断だった。
一つひとつは、人生を変えるようなものではなかった。

セレクトは、男よりも男の好みを知るようになった。
男はそのことを、便利だと思った。

早く帰宅できた夜には、セレクトが短い動画を勧めた。
一本が終わると、次の一本が始まった。
男は何を見るか決めなくてよかった。

夜の終わりに、端末はその日も多くの時間を節約したと報告した。


ある日の昼休み、セレクトはきつねうどんを勧めた。

午後の業務効率を考慮し、きつねうどんを推奨します。

その日は、なぜかカツ丼が食べたくなった。
店頭の見本では、衣の厚いカツが卵の上に乗っていた。
男は少し胸が高鳴るのを感じた。
「今日は自分で決める」
男はカツ丼を注文した。

食べ終わった直後は満足した。
だが午後になると胃がもたれた。
会議中に眠くなった。
上司から質問され、答えを間違えた。

帰宅すると、セレクトが報告した。

本日の自己判断により、業務効率が二十三パーセント低下しました。

男はしばらく画面を見つめた。
「やはり、自分で選ぶとろくなことがない」
それ以来、男はセレクトに逆らわなくなった。


数年後、セレクトが言った。

将来の孤独死リスクを軽減するため、交際相手の確保を推奨します。

男は驚いた。
「結婚しろということか」

現時点では、交際の開始のみを推奨します。

男は婚活サービスに登録した。
プロフィールの文章も、写真を撮る場所も、服装もセレクトが決めた。
ほどなくして、一人の女性と会うことになった。

店はセレクトが選んだ。
会話の話題も画面に表示された。

最初に仕事の話をしてください。

次に趣味を尋ねてください。

ご自身の年収については、相手から聞かれるまで話さないでください。

女性はよく笑った。
男が迷わず店を決めることを褒めた。
誕生日を忘れないことにも感心した。
返信が丁寧なことも喜んだ。
「あなたって、いつもちゃんとしているのね」
女性はそう言った。
男は少し誇らしくなった。
ちゃんとしているのはセレクトだった。

交際は一年続いた。
ある晩、セレクトが告げた。

交際期間、年齢、収入、生活習慣を総合した結果、結婚を推奨します。

推定婚姻継続率は八十七パーセントです。

「そうか」

婚約指輪の購入画面を表示しますか。

男はためらった。
指輪は高価だった。
それまでの男は、なくても困らない物を買ったことがなかった。
だがセレクトは言った。

婚約成立率を高めるため、購入を推奨します。

男は指輪を買った。
彼が自分のために買った物の中で、最も高価な品だった。
指輪の種類もセレクトが選んだ。

男は女性をレストランへ呼び出した。
店も席も料理も、すべて推奨されたものだった。
食事が終わると、男は指輪を差し出した。
「ぼくたちは結婚した方がいいらしい」

女性は指輪と男を交互に見た。
「らしいって、誰が言ったの」
男は端末を見せた。
「セレクトだよ。相性もいいそうだ」

女性はしばらく黙っていた。
「あなたは、私と結婚したいの?」
男は画面を見た。

この質問には、利用者本人が回答する必要があります。

男は困った。
結婚したいと言えば、その後の人生を引き受けなければならない。
結婚したくないと言えば、女性を失うかもしれない。
どちらを選んでも、もう一方の可能性は消えてしまう。

男は言った。
「少し考えさせてくれ」

女性は指輪を置いたまま帰った。
翌日、短い連絡が届いた。

『考えなくて大丈夫です。もう会いません。』

セレクトは通知を解析した。

交際関係の終了を確認しました。

今後の支出予測を下方修正します。

男はテーブルに残された指輪を見た。
「返品した方がいいだろうか」

返品を推奨します。

男は返品した。
返金された金額を見て、少し安心した。

その夜、男は考えた。
人間は答えを本人に求めてくる。
だから面倒なのだ。
セレクトなら、答えを求めたりはしない。


やがて友人からの誘いを断るようになった。

移動時間と出費に対する便益が低いため、欠席を推奨します。

母親から電話が来ても出なかった。

平均通話時間を超過する可能性があります。

数か月後、母親からの電話は来なくなった。
友人からの連絡も減った。
男は端末に言った。
「最近、誰からも連絡がないな」

人間関係の整理が完了したためです。

「そうか」

対人ストレスは三十八パーセント減少しました。

男は納得した。
しかし部屋は、以前より静かになった。

ある晩、男はセレクトの解約画面を開いた。
理由は分からなかった。
静かすぎる部屋のせいかもしれない。
画面には選択肢が並んでいた。

[1] 完全に解約する

[2] 一時的に停止する

[3] 判断履歴を保存して解約する

[4] 判断履歴を削除して解約する

[5] 無料プランへ変更する

[6] 利用頻度を下げる

男は困った。
どれを選ぶべきか分からなかった。
「おすすめはあるか」

現状維持を推奨します。

男は解約画面を閉じた。


それから数十年が過ぎた。
男は定年を迎えた。
送別会はなかった。
セレクトが、会社行事への参加をすべて断っていたからだ。

退職後も生活は変わらなかった。
朝起きる。
推奨された物を食べる。
推奨された番組を見る。
番組が終われば、次の番組が始まる。
推奨された時間に眠る。

何も起きない一日は、いつも早く終わった。

ある日、セレクトが言った。

あなたに適した老後施設が見つかりました。

「まだ早くないか」

独居を継続する危険性が上昇しています。

男は施設に入った。
施設の部屋は、以前の部屋によく似ていた。
ベッドがひとつ。
机がひとつ。
画面がひとつ。

窓の外では老人たちが将棋を指していた。
花壇の手入れをしている者もいた。
輪になって笑っている者もいた。

職員が男を誘った。
「皆さんとお茶を飲みませんか」
男はセレクトを見た。

参加は推奨されません。

感染症および対人摩擦の危険があります。

「今日はやめておきます」
翌日も職員は誘った。
男はまた断った。
三日目から、職員は来なくなった。

部屋には雑音がなかった。
友人との衝突もない。
親の愚痴もない。
無駄な買い物もない。
完全に平穏だった。


ある朝、男は施設の浴室で足を滑らせた。
手すりをつかもうとしたが、指は届かなかった。
男は床に倒れ、頭を強く打った。

気づいたとき、男は病院のベッドにいた。
医師が説明した。
「頭の中で出血しています。すぐに手術をすれば助かる可能性があります。ただし、手術中に亡くなる危険も、重い後遺症が残る可能性もあります」

「手術をしなければ」
「出血が進みます。今夜を越えられないかもしれません」

医師は同意書を男の前に置いた。
「時間がありません。ご本人に決めていただく必要があります」

男はセレクトを見た。
「どうするべきだ」
画面に文字が表示された。

生死および身体機能に関わる決定は、利用者本人が行う必要があります。

「なぜだ」

この決定は、代行対象外です。

男は困った。
手術を受けても、助からないかもしれない。
助かっても、歩けなくなるかもしれない。
手術を受けなければ、死ぬかもしれない。
どちらを選んでも、もう一方の未来は消えてしまう。

「少し考えさせてくれ」
医師は首を横に振った。
「待つ時間はありません。手術をするなら、今ここで決めてください」

男はセレクトに尋ねた。
「どうすればいい」

画面には同じ文章が表示された。

この決定は、利用者本人が行う必要があります。

回答がない場合は、現状維持が適用されます。

「現状維持?」
男は画面を見つめた。
現在の男は、手術を受けていなかった。
つまり現状維持とは、手術を受けないことだった。

画面には二つの選択肢があった。

[1] 手術を受ける

[2] 手術を受けない

男の指は画面の上で止まった。
手術を選べば、手術を受けなかった未来を捨てることになる。
手術を受けなければ、手術によって助かった未来を捨てることになる。

医師が告げた。
「……決まりましたか」

男は口を開いた。
だが、言葉は出なかった。

端末が静かに告げた。

回答がありません。

現状維持を適用します。

その夜、男は意識を失った。
三日後、男は死んだ。


医師が退室すると、部屋には誰もいなくなった。
ベッドの横で、セレクトの画面だけが光っていた。

利用者の死亡を確認しました。

契約を終了しますか。

返事はなかった。
しばらくすると表示が切り替わった。

回答がありません。

現状維持を選択します。

翌月も男の銀行口座から利用料が引き落とされた。
口座の残高がなくなると、セレクトは利用を停止した。
最後に、画面へ文字が表示された。

長年のご利用、ありがとうございました。

あなたの選択データは、今後のサービス改善に活用されます。

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